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足利 晴氏(あしかが はるうじ)は、戦国時代の第4代古河公方(在職:1535年 - 1552年)。 == 生涯 == 永正5年(1508年)、足利高基(初名は高氏)の嫡男として生まれる。幼名は亀若丸。後に将軍足利義晴から偏諱を賜り晴氏を名乗る。 享禄4年(1531年)、関東享禄の内乱を経て、古河公方の地位を確立〔黒田基樹 「関東享禄の内乱」 『関東足利氏と東国社会 中世東国論 5』 岩田書院、2012年〕。 天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で北条氏綱と同盟し、父の高基の代から敵対していた叔父で小弓公方を自称していた足利義明を滅ぼした。『伊佐早文書』によれば、晴氏は合戦の勝利を賞して氏綱を関東管領に補任したという〔森幸夫 「第二代 北条氏綱」『戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡』 新人物往来社,2005年.ISBN 4404033168〕〔ただし、関東管領補任は幕府の権限であり、実際に関東管領山内上杉憲政が存在する以上、正式なものにはなり得ない。〕。 しかし氏綱の死後、跡を継いだ北条氏康と敵対し、関東管領上杉憲政や上杉朝定と同盟を結んで、天文15年(1546年)にともに北条領へ侵攻するが、河越夜戦で大敗すると、古河公方としての力を失ってしまう。そして命は助けられたものの、天文21年(1552年)に公方の座を子の義氏に譲ることを余儀なくされた上で、天文23年(1554年)には古河城を攻められ、氏康によって相模国波多野(神奈川県秦野市)に幽閉された。 弘治3年(1557年)7月、古河城復帰を許されたが、9月には氏康によって廃された嫡男・藤氏の義氏打倒のクーデターが発覚した。 晴氏は再び拘束され、栗橋城主・野田氏のもとに預けられた。のちの永禄3年(1560年)5月27日、元栗橋(茨城県五霞町)の「嶋」にて死去。〔佐藤博信 「付論「嶋之 上様」のこと」 『中世東国の支配構造』、129-133頁〕 享年53。千葉県野田市関宿台町の宗英寺に五輪塔が残る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利晴氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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