|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 足 : [あし] 【名詞】 1. foot 2. pace 3. gait 4. leg ・ 利 : [り] 【名詞】 1. advantage 2. benefit 3. profit 4. interest ・ 永寿 : [えいじゅ] (n) long life ・ 寿 : [ことぶき] 【名詞】 1. congratulations! 2. long life! ・ 王 : [おう] 1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) ・ 丸 : [まる] 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names
足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。 父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。 == 生涯 == === 幼少期 === 幼少期には曖昧な点が多い。幼名は永寿王丸(永寿丸)とする解説〔例えば、元禄9年(1696年)に写された二階堂貞政(主殿)所蔵本の写しで、彰考館に所蔵されていた『喜連川判鑑』や『古河公方系図』、『古河御所之傳』、浅羽氏家蔵の『足利系図』(ともに『続群書類従』所収)〕が多いが、万寿王丸とする百瀬今朝雄の説が近年は支持されている。 生年に関しても、永享6年(1434年)あるいは永享10年(1438年)とする解説が混在する〔例えば、『山川日本史小辞典』の項目「足利成氏」では1434? とする。その一方で、例えば『角川新版日本史辞典』では1438? とする。『国史大辞典』でも、生年を永享10年とする。更に『古河市史』に所収されている「足利家通系図」(資料中世編1542号)には成氏の誕生日を「永享三年辛亥四月二日生」と記されている。〕。現在広く用いられている解説を整理すると、主に次の2つになる。 一つ目の説では、嘉吉元年(1441年)の結城合戦にて、安王丸・春王丸の他にも持氏遺児の4歳の童が捕えられたが、京都への連行中に第6代将軍足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)ため、処分が実行されず、幸運にも生き延びた(『建内記』)。この4歳の童を成氏とみなす。逆算すると生年は永享10年となる。その後、宝徳元年(1449年)8月に、京都の土岐持益邸にいた持氏の遺児が鎌倉に向け出立(『草根集』)し、鎌倉公方となったとする。〔例えば、『国史大辞典』の項目「足利成氏」(杉山博の執筆)。また、本解説では、永享6年を生年とするのは、『結城戦場記』にもとづく旧説であり、1438年の方が有力であるとする。〕 百瀬今朝雄は以上の通説を再検証し、宝徳元年8月に京都から鎌倉に向けて発った人は、成氏ではなく弟の尊敒であるとした〔『神奈川県史通史編1』、889-960頁(第三編第三章第四節 鎌倉府の没落)〕。佐藤博信も、尊敒を定尊と見直しているが、成氏の弟とする点では同様の見解である〔佐藤博信(1989)、46-49頁〕。成氏本人は京都ではなく信濃から、文安2年(1445年)あるいは3年(1446年)に鎌倉に還御して鎌倉公方となり、宝徳元年6月から8月に元服したとする〔。佐藤はさらに、鎌倉公方就任を文安4年(1447年)3月〔佐藤博信(1989)、95頁〕、鎌倉帰還を同年8月27日〔佐藤博信(1989)、91頁〕と特定した。 百瀬以降の研究成果に従えば、幼年期の経歴は次の通り。成氏は第4代鎌倉公方足利持氏の男子として、永享6年頃に生まれた〔 1434年以外では、『戦国人名事典』の項目「足利成氏」(佐藤博信の執筆)の永享3年(1431年)とする例もあり、現在は1434年を中心に1431~1436年の範囲で議論されていると総括される。ちなみに、1434年とする考えは、明応六年(1497)に64歳で没したとする史料とも矛盾しない。例えば、『古河公方系図(続群書類従)』によれば、「持氏戦死時年僅五歳、明応六年九月晦日卒、年六十四」。『(下野喜連川)足利家譜』(東京大学史料編纂所蔵)によれば、「明応六年九月晦日卒、年六十四」。ただし一方で、『足利家通系図』によれば、「永享三年四月二日生、明応六年九月晦日卒、六十七歳」。(以上は『古河市史資料中世編』No.1540~1543にも収録)〕。成氏がまだ幼い永享11年(1439年)に、父持氏は関東管領上杉憲実・6代将軍足利義教と対立した結果、兄の義久と共に敗死(永享の乱)し、鎌倉公方は廃止された。その後、成氏は信濃佐久郡の大井持光の元で養われる〔『喜連川判鑑』、『永享記』、『鎌倉九代後記』など。なお、『喜連川判鑑』では文安2年に関東諸家が成氏が信濃の大井氏の下にいることを京都に申告したとしている〕。 同12年(1440年)3月に結城合戦が始まり、嘉吉元年4月に下総結城城が陥落した時に、持氏遺児の安王丸・春王丸・成氏の弟の3人が捕えられたが、成氏本人は戦場にはいなかった。この時、兄の安王丸・春王丸は殺された。やがて、成氏は文安4年3月に鎌倉公方となり、8月に信濃から鎌倉に帰還した。後に宝徳元年に元服、すなわち、6月頃に8代将軍足利義成(後の義政)の偏諱(「成」の一字)を与えられて「成氏」という名が決まり〔『康富記』文安六年(1449)7月3日条〕、8月27日に左馬頭に任じられ、同時に従五位下に叙された〔『喜連川判鑑』、後花園天皇口宣案(『戦国遺文古河公方編』No.2,3 収録)など。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利成氏」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ashikaga Shigeuji 」があります。 スポンサード リンク
|