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足利 義助(あしかが よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。堺公方足利義維(義冬)の次男。室町幕府14代将軍足利義栄の弟(一説には義栄の子)〔阿南市立阿波公方・民俗資料館所蔵の『嶋公方・阿波公方譜』によると、義栄の一男。実は義維の次男とあり、義栄の養子であると言える。〕。2代目平島公方。 == 経歴 == 父義維が、堺から阿波国に逃れてから生まれた子であり、兄義栄が将軍になるために上洛した際も、平島に留まったとされる。長宗我部元親の四国統一もあり、後ろ盾であった三好氏も力を失っていったが、天正10年(1582年)中富川の戦いの折、長宗我部氏を積極支援したこともあり、元親により父以来の所領3000貫あまりは温存となる。 その後、義栄死後に上洛しようとしたが小笠原成助に妨害され、織田信長によって第15代将軍足利義昭が放逐された際にも上洛しようとしたが既にその力も世の支持もなかった。天正13年(1585年)に蜂須賀家政の阿波国入りに至っては、権威を取り除くためもあってか、100石扶持まで落とされ〔『阿淡年表秘録』〕〔『平島記』によると、義助の阿波退去を引き留められて断念し、100石の知行をうけ、家臣の大部分に暇を出したとある。〕、これ以外に、後の徳島市富田町3丁目に当たる地を得、蜂須賀家との折衝などのための出屋敷として使用した。 文禄(1592年)、平島で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利義助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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