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足利貞氏 : ミニ英和和英辞書
足利貞氏[あしかが さだうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あし]
 【名詞】 1. foot 2. pace 3. gait 4. leg 
: [り]
 【名詞】 1. advantage 2. benefit 3. profit 4. interest 
: [うじ]
 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth 

足利貞氏 : ウィキペディア日本語版
足利貞氏[あしかが さだうじ]

足利 貞氏(あしかが さだうじ)は、鎌倉時代後期から末期にかけての鎌倉幕府御家人足利家時嫡男室町幕府初代将軍となる足利尊氏やその異母兄・足利高義、その弟・足利直義の父。
== 生涯 ==
父・家時の死を受けて足利氏当主となる。貞氏は当時10歳前後の少年であったとされ、祖父・足利頼氏以来3代続けての幼少の当主となり、執事高氏高師氏高師重父子)の補佐をうけた。金沢顕時の娘を正室に迎えるなど、家時の自害のあとを受けても歴代の足利氏当主と同様に北条氏との関係を重視した。の「貞」の字は、元服の際に当時の執権得宗家当主であった北条貞時(在任:1284年-1301年)の偏諱を賜ったものであり〔紺戸、1979年。田中、2013年、P.25(田中論文)・P.68(臼井論文)・P.170(吉井論文)。このうち、吉井は元服の時期が正応年間初期(1288年~)であったとする見解を示している。〕、「得宗の偏諱+通字の氏」で実名を構成してきた〔田中、2013年、P.25(田中論文)・P.67-68(臼井論文)・P.131(小谷論文)。〕祖父までの慣例に倣って貞氏と名乗った。
貞氏が生まれた頃、当時の執権北条時宗(貞時の父)は蒙古襲来への勝利を祈願すべく、将軍・惟康王を「源惟康」という「源氏将軍」として戴くことによって“治承・寿永の乱の勝利者・源頼朝”の再現を図ったという〔細川重男 「右近衛大将源惟康―得宗専制政治の論理―」(同氏『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)第四章に所収、初出は『年報 三田中世史研究』9号、2002年)。〕。この「源氏将軍」の復活という現象は、かつての源氏将軍を回顧する機会を与え、東国武士社会の中に潜在していた武家の正統イデオロギーとしての「源氏将軍観」をも高揚させたという〔川合康「武家の天皇観」(同『鎌倉幕府成立史の研究』、校倉書房、2004年、初出は1995年)。田中、2013年、P.23(田中論文)。〕。故に、賜姓源氏の惟康よりも、頼朝と同じ清和源氏の系譜に連なり、その一門筆頭に位置づく足利氏の方が将軍に相応しいとの認識を周囲に呼び起こし、足利氏を将軍に擁立しようとする動きや足利氏に野心があるのではないかという猜疑心をもたらしたとされている〔田中、2013年、P.23(田中論文)。〕。当時の当主であった父・家時は、将軍・惟康の近臣筆頭の役割を担うことによって時宗政権へ協力する姿勢を見せていたが、時宗の死後まもなくして自殺を遂げている〔家時の没年月日については史料によって様々に伝わるが、弘安7年(1284年6月25日とする説が有力である。この詳細については足利家時の項を参照のこと。〕。この理由については諸説あったが、最新の研究では家時がそうした「源氏将軍観」の動向と切り離すとともに、時宗に殉死することで北条氏得宗家に対し忠節を尽くすための行為であったとされている〔。
その後の霜月騒動1285年)や平禅門の乱1293年)も「源氏将軍」を擁立する動きであったとされ、その後も同様の反乱が起こる可能性があったが、貞時はこの対策として烏帽子子である貞氏に対して「源氏嫡流」として公認することを行ったという〔田中、2013年、P.24(田中論文)。〕。このことは、他の源氏一門との格差が明示されることにも繋がるため、足利氏の側にとっても歓迎すべきことであったといい、合意形成に至ったという〔田中、2013年、P.25(田中論文)。〕。貞時の子・北条高時の代に入って、貞氏の最初の嫡子が前述の慣例によって「高氏」ではなく「高義」と名乗っていることがそのことを象徴的に示している。すなわち、「高義」の名乗りは得宗高時の偏諱「高」と清和源氏の通字である「義」によって構成されており、わざわざ「義」の字が使われている背景には足利氏を「源氏嫡流」に位置付けることで互いの政治的思惑を一致させた、北条氏(得宗)と足利氏との合意形成があったと考えられている〔。但し、このことは足利氏が将軍になり得る可能性を北条氏が認めることとなるため、北条氏は公認を与えるに際しての条件として、足利氏が引き続き北条氏の擁立する将軍に伺候する立場を遵守することと、北条氏に対し服従する意志を見せることを足利氏に求めたという〔。貞氏もこのことをよく認識していたようで、第8代将軍久明親王の室のための祈祷の際に雑事役を務める等、父同様に得宗が擁立した将軍に近侍することで得宗政権への協力姿勢を見せ、また貞時の出家に従って貞氏も出家し、元亨3年(1323年)の貞時の十三回忌法要に際しては230貫文という、当時の権力者・長崎円喜の300貫文に次ぐ高額の費用を進上する〔「北条貞時十三年忌供養記」(『円覚寺文書』、所収:『神奈川県史 資料編2 古代・中世(2)』2364号)。〕等、得宗政権への直接的な従属姿勢を見せている。従来、このような行為は「父家時よりうけついだ怨念を胸中に蔵しながら、表面は得宗の意をむかえることに汲々として奉仕につとめる、忍従の立場に貫かれた」と評されていた〔田中、2013年、P.126-129(小谷論文)。〕が、近年では逆に、積極的に得宗の意を迎えて奉仕することで「源氏嫡流」の公認を獲得し、得宗の擁立した親王将軍の近臣を担うことで得宗政権への協力姿勢を見せることで、北条氏から優遇されて政治的立場を安定させることに成功し、足利氏が得宗家に次ぐ家格を維持することができたと評価されている〔田中、2013年、P.25-26(田中論文)。〕。
尚、出家の時期については、『尊卑分脈』や『系図纂要』に応長元年(1311年11月27日と記され、従来の研究では同年10月26日の得宗・北条貞時の死去に伴う出家とされてきたが、近年の研究では正安3年(1301年)の貞時の執権辞職および出家に伴って貞氏も出家したとの説が出されている。
一如法堂事 長日勤行也、此堂奉為伊与守源家時御菩提、始所被行也、俊算法印以持仏堂彼所被移送云云、料田者額田郡上村田三段、又正観坊跡大門屋敷云云
正安三年十二月廿三日
讃岐入道殿御下文在御判、左衛門尉師重
(「瀧山寺縁起」より〔田中、2013年、P.287(新行論文)・P.400(「下野足利氏関係史料」)。『新編岡崎市史 史料 古代・中世』。〕)
この史料からも正安3年12月23日の段階で讃岐守貞氏が出家して「讃岐入道」となっていたことが裏付けられる。「瀧山寺縁起」については他の記載も含めて信憑性の高いものとされているが、『門葉記』には正安4年(1302年)の段階で「足利讃岐守」と記している〔田中、2013年、P.190(前田論文)。典拠は『門葉記』巻七十 冥道供七「関東冥道供現行記」(『大正新脩大蔵経』図像第11巻、大正新脩大蔵経刊行會、1934年)正安4年2月9日条。〕ので注意を要する。しかし『鎌倉年代記』裏書には、嘉元3年(1305年)に起きた嘉元の乱に際して、連署の北条時村を殺害した与党の一人、海老名左衛門次郎秀綱(正しくは海老名季綱〔田中、2013年、P.171年(吉井論文)。〕、海老名氏)の預かりを務めている人物として「足利讃岐入道」の名が記されており〔『鎌倉年代記』裏書 嘉元3年5月2日条。〕〔、出家の時期は少なくとも貞時の死より前、嘉元3年以前であった可能性は高いと言って良いだろう〔田中、2013年、P.171(吉井論文)。〕。尚、貞氏が讃岐守であったことについては『尊卑分脉』等で確認できるが、正応5年(1292年)2月には惟宗某が讃岐守であったことから、正応5年から正安年間の間に補任されたと考えられている〔田中、2013年、P.190(前田論文)。前田治幸「足利貞氏の讃岐守任官と出家時期―『鑁阿寺文書』中の二通の足利貞氏発給文書から―」(『ぶい&ぶい』13号、2010年)。〕。
また、貞氏の出家により高義が家督を継承したとの説もあり〔千田孝明「足利氏の歴史~尊氏を生んだ世界」(所収:同『足利氏の歴史~尊氏を生んだ世界』、1985年)。〕、その時期を『尊卑分脉』等が示す応長元年11月とする見解もあった〔影山博「鎌倉時代足利氏の一考察」(『野州史学』創刊号、野州史学会、1975年)。〕が、貞氏の出家時期を嘉元3年以前とした場合その可能性は低くなる〔田中、2013年、P.171(吉井論文)。〕。前述の通り、高義の「高」は得宗・北条高時から拝領したものとみられるが、高時は延慶2年(1309年)に元服して幼名の成寿から高時へと改名し〔『鎌倉年代記』正和5年(1316年)条、北条高時の項。〕、翌1310年(延慶4年)1月17日に幕府小侍所に任じられているので、嘉元3年以前にまだ「高時」を名乗らない成寿によって「高」の一字を拝領することはあり得ず〔田中、2013年、P.172(吉井論文)。〕、高義がまだ元服を済ませていない状態で家督を継承したことになってしまう。実際の古文書を見ても、正和3年(1314年)閏3月28日付「粟生敬願譲状写」や文保2年(1318年9月17日付「長幸連譲状写」のように、この当時も貞氏が足利氏当主であった様子が窺える(従って出家によって家督を譲ったというわけではないようである)。但し、その間正和4年(1315年11月15日に「足利左馬助」が鶴岡八幡宮の僧侶・円重に対して供僧職安堵の書状を出している〔「鶴岡両界壇供僧次第」(所収:『続群書類従』第四輯下)。〕が、この「足利左馬助」は高義を指すと考えられる〔『尊卑分脉』。〕。鶴岡八幡宮の上宮東回廊には足利義兼が両界曼荼羅と一切経を納めた「両界壇」と呼ばれる区画があって、足利氏宗家では八幡宮の僧侶に依頼して供養を行っていたが、その供養を行う供僧の職の補任と安堵は宗家当主が行っていたので、足利左馬助(高義)の円重に対する供僧職安堵も足利氏当主としての行為であったと考えられ、正和3年から4年の間に貞氏から高義への家督の交代があったことが推測される。しかし、高義は早世し、その没年は文保元年(1317年)であったとされ〔『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)の高義の記事中の“高義 嫡子、号円福寺殿、文保元年六月廿四日卒”による(田中、2013年、p.386)。〕、次男(のちの足利尊氏)もまだ元服を済ませていない状態であった〔高氏(尊氏)は元応元年(1319年)に15歳で元服したと伝わる(『続群書類従』第五輯上所収「足利系図」)。〕ため、再び貞氏(義観)が家政を担うこととなったらしい。それを裏付けるかのように、前述の文保2年(1318年)の古文書以降も、貞氏発給の文書が多数残されており、生存中に高氏(尊氏の初名)には家督を譲っていない〔高義の死後に元服した高氏(尊氏)の仮名が宗家嫡男に付けられる「三郎」ではなく「又太郎」であったことなどから、高義の遺児の成長もにらんで高氏(尊氏)の家督相続が直ちに確定したわけではないようである。足利宗家では2代目の義兼から代々、正室所生の嫡男が幼少であっても庶系には家督を譲らず、庶兄・庶伯父などが直系嫡男が家督相続するまでの家政の代行を担ったり援助していた。清水、2008年、p.125-142による。尚、『続群書類従』第五輯上所収「足利系図」や『系図纂要』には高義の息子として安芸守某と田摩御坊源淋の記載がある。〕。
貞氏の頃は足利氏の家政機関が整い、それら機関の活動も充実し、足利氏被官のもとに残された数多くの貞氏発給文書が残されている。鎌倉における足利氏の菩提寺浄妙寺を再興した他、弘安4年(1281年)に落雷で焼失していた足利鑁阿寺大御堂の再建も行っている。
元弘元年/元徳3年(1331年)9月5日、59歳で死去〔『尊卑分脉』。但し、(大きな違いはないが)『常楽記』や『大乗院日記』目録では命日を9月6日、『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)では9月5日に60歳で死去(田中、2013年、P.386)とする。〕。翌元徳4年(1332年)には次男の高氏が文書を発給しており〔田中、2013年、P.173(吉井論文)。典拠は元徳4年2月29日付「木戸宝寿宛安堵状」(『上杉家文書』)。〕、貞氏の死後は高氏が家督を継いだことが確認できる。高氏(尊氏)が1333年に北条氏の鎌倉幕府に反旗を翻して滅ぼすよりわずか2年前の死去であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「足利貞氏」の詳細全文を読む




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