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足利 頼純(あしかが よりずみ / - よりあつ、足利 頼淳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。足利氏の一門。足利義明の次男で小弓公方家の当主。別名に喜連川頼純。 == 生涯 == 天文7年(1538年)に第一次国府台合戦で父・義明が戦死すると、安房国の里見氏を頼って落ち延び、その庇護を受けた。幼時には石堂寺に預けられたとみられている〔大野太平「喜連川頼氏の寄寓について」(『房総郷土研究』2巻1号、1935年)〕。 成人後は小田喜に滞在した〔滝川恒昭「小弓公方家臣・上総逸見氏について―国立国会図書館所蔵「逸見文書」の紹介―」(『中世房総』6号、1992年))〕。里見義頼と梅王丸の家督争いの際には義頼に偏諱を与えたとする見方がある一方(佐藤博信説)で、それに続く義頼と正木憲時の争いの時には後者についたとする見方がある(千野原靖方説)。北条氏が豊臣秀吉による小田原征伐によって下総国から撤退すると、その機に乗じて里見義康とともに父が住した小弓城を奪還した様である〔山中長俊が増田長盛に充てた書状では、頼純が小弓に在城していたように記されている。〕。「義」の字を家臣の逸見氏に付与しており、意識の上では関東足利氏正統として、その秩序の管理者として振る舞っていた〔滝川恒昭「小弓公方家臣・上総逸見氏について―国立国会図書館所蔵「逸見文書」の紹介―」(『中世房総』6号、1992年))〕。 娘の鳩子(のちの月桂院)が秀吉の側室となったことと、足利氏の血を引くことから大名として復帰を許され、嫡男の国朝が下野国喜連川城を領した。ほかに娘として鎌倉東慶寺十九世瓊山法清がいる。 慶長6年(1601年)死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利頼純」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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