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足助氏(あすけし)は、日本の氏族の一つ。清和源氏満政流浦野氏族。三河国加茂郡足助庄より発祥。 == 概要 == 平安時代末期に浦野重遠の孫・重長が三河国足助の地に住んで足助氏を称したことに始まり、代々飯森城を本拠とした。また、同国の八条院領高橋荘とも関連があったとされる。鎌倉時代以降は御家人に列し、初代・重長の娘が鎌倉幕府2代将軍源頼家の室となり公暁を儲けるなど幕府との強固な繋がりを有した可能性が想定される。他方、京と鎌倉を結ぶ東海道および東山道の要地に勢力を持った清和源氏満政流は朝廷との繋がりも深く、後に源氏将軍家が断絶し承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げると一族の多くが京方として戦った(承久の乱)。承久の乱において、足助氏では、足助重秀の子重成が討死にしたが、その後も足助氏は存続しているので、重成以外は鎌倉方だった可能性がある〔矢代仁(『公暁―鎌倉殿になり損ねた男 』ブイツーソリューション、2015年)〕。 足助氏はその後も御家人として存続したが、4代目惣領・重方とその子・親重は官位を有し昇殿をも許されるなど朝廷との繋がりは依然として深く、加えて一族の中には有力御家人安達氏との縁戚がおり、弘安8年(1285年)の霜月騒動で一族の重房が連座して滅ぼされたことなどから、次第に鎌倉幕府への不満を強めていくこととなる。 そして、元弘元年(1331年)の後醍醐天皇による討幕の計画・元弘の乱では幕府が事前に知るところとなり天皇は笠置山に逃れるが、この時真先に馳せ参じて天皇に味方したのが7代目惣領・次郎重範であったという。重範は天皇の呼び掛けに応じて集まった約二千五百人の総大将をつとめた。 重範の死後、足助氏は南北朝時代には南朝の宗良親王を支援していたが、後に足助を離れて全国に散り散りとなった。だが、一部は室町幕府に降り奉公衆に取り立てられて重んじられたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足助氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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