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長宗我部 康豊(ちょうそかべ やすとよ)は、江戸時代初期の武将。土佐の戦国大名長宗我部元親の末子にあたり、『長宗我部旧記』『古老噺』、『落穂雑談一言集』等に名前が残る。 == 生涯 == 慶長4年(1599年)頃、長宗我部元親の末子として生まれる。長宗我部氏没落後、大坂の役の際には兄・盛親に従うが、大坂城落城後に脱出した。後に足立七左衛門と名乗って、酒井忠利に仕え、1,500石を与えられた。子孫は5,000石を賜る重臣となったという。 「落穂雑談一言集」「古老噺」には、康豊が川越までに向かう道中の出来事が書かれている。康豊は山科の農家で着物を盗み、宇都宮の縁者を頼るつもりで東に向かった。しかし、食料も尽き二日も食べるものもなく信濃の多賀神社で一夜を明かした。そこで安部晴明の子孫の安部康豊と名乗って占い師を装い、頓智を使って村人をだましたり盗難事件を解決したりして、10両の金を得てさらに東に向かった。駿府の長光寺に住み着き、そこで母方の姓を使って足立七左衛門と名乗った。ある日、駿府城主・酒井忠利が鷹狩をしている時、刀をもった狂人が忠利に切りかかった。近隣の住民として鷹狩の手伝いをしていた康豊がこれを取り押さえたため、忠利は単なる農民であるまいと康豊の素性を尋ね、康豊は自分の身の上を明かした。驚いた忠利は、康豊に500石を与えて家臣に取り立て、その後加増されて1,500石となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長宗我部康豊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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