|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 跡 : [せき, あと] 【名詞】 1. (1) trace 2. tracks 3. mark 4. sign 5. (2) remains 6. ruins 7. (3) scar
跡部 勝資(あとべ かつすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣。跡部信秋の子。 == 略歴 == 跡部氏は信濃国守護小笠原氏庶流で信濃国跡部郷に発する一族。室町時代の応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱により甲斐守護・武田信満が滅亡すると、室町幕府では高野山で出家していた武田信元・次いで武田信重を甲斐守護に任じた。幕府は信濃守護・小笠原政康に信元らの甲斐帰国支援を命じ、政康は守護代として跡部氏を甲斐へ派遣した。 こうして跡部氏は甲斐へ土着するが、寛正6年(1465年)、甲斐守護・武田信昌は跡部景家を滅ぼし、跡部氏は排斥される。 戦国時代の武田晴信(信玄)・勝頼期には武田家臣としての跡部勝忠・跡部昌忠などの名が見られ、譜代家老などをつとめる。『跡部氏系譜』では信秋・勝資父子の出自が守護代跡部氏に遡ることは記されているものの、その正確な系譜は不明。 信玄・勝頼期に甲斐武田氏は大名領国を拡大した結果、当主周辺には常駐家臣が少なくなり譜代家老の子弟が側近として当主に近侍しており、勝資は山県昌景・土屋昌続・原昌胤らとともに信玄側近として数多くの朱印状奉者として見られる。また、『甲陽軍鑑』によれば勝資は300騎持の侍大将といわれ、武田家中では山県昌景・春日虎綱(高坂昌信)と並び最大級の動員力である。 天文18年(1549年)には武田氏の信濃国侵攻において望月氏、大井氏、伴野氏ら佐久郡の国衆を服属させているが、同年5月には大井信常を大井氏の名代に命じる使者として駒井高白斎とともに「跡又」が派遣されており、以来永禄9年(1566年)まで仮名「又八郎」で奉者として名が見られ、これが勝資に比定されると考えられている。同年閏8月からは「大炊助」の官途名に変わり領国各地の国衆との取次を務めているほか、永禄10年(1567年)の武田家中における義信事件に際した下之郷起請文においても奉行を務めている。 勝頼期には対外交渉において越後国上杉氏との甲越同盟や常陸国佐竹氏との甲佐同盟などにおいて取次を務めており、勝資は一門の武田信豊との組み合わせで取次を務めている事例が多い。 『信長公記』に拠れば、天正10年(1582年)3月11日には織田・徳川連合軍による甲斐侵攻において勝頼とともに死去。 山梨県南アルプス市宮沢に所在する曹洞宗寺院の深向院は、甲府・興因寺(甲府市下積翠寺町)の末寺で、天文年間に跡部勝資が興因寺五世の玄紹宗黄を招き曹洞宗寺院として再興したという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「跡部勝資」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|