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車 斯忠(くるま つなただ、生年不詳 - 慶長7年(1602年))は、戦国時代の武将。佐竹氏の家臣。丹波守を名乗り車丹波の名で知られる。名は猛虎、義照、忠次とも。 == 生涯 == 常陸国車城主・車兵部大輔義秀の子として誕生。名の「斯」の字は、佐竹義斯から偏諱の授与を受けたものとみられる。 車氏は天授年間頃に岩崎二階堂氏の一族が、現在の北茨城市華川町に在して車氏を称したことに始まる。佐竹氏に臣従していたが、戦国時代に入り文明17年(1485年)に岩城常隆に攻められて一時滅亡する。岩城氏は佐竹領侵略のための拠点を車城に置き、弟の岩城隆景を入城させた。この隆景が再度車氏を称し、斯忠は曾孫にあたる。 父・義秀は岩城氏の最前線として佐竹氏に抗していたが、後に佐竹氏に降り、斯忠は半ば人質同然として佐竹義重に仕える。義重に重用され次第に側近として力を持つようになっていったと思われる。決定的になったのは、1571年(元亀2年)7月に同じく側近として佐竹氏を支えていた和田昭為を讒言によって白河結城氏の下へ追放してからの後で、智謀を武器に様々な外交工作を行った。また武勇にも優れていたが、反面民政面では不手際が多く、そのことで城主の任を解かれ、一時追放されたこともあったと伝わる。そのため岩城氏に属して伊達氏との戦に在陣していた記録も残っている。 文禄・慶長の役では1593年に佐竹義宣に従い肥前国名護屋城に在陣しているが、その後徳川家康の会津征伐を前にして佐竹家を離れて、上杉景勝の下で陸奥国福島城、梁川城に在番しているが、これは名目上中立の立場をとる佐竹氏が上杉氏に助力するために、反徳川の急先鋒であった斯忠を送り込んだものとも言われている。 関ヶ原の戦いの後に佐竹氏に復帰するが、戦後仕置きにおいて常陸国水戸54万石から出羽国秋田18万石へ移封に反発。徹底抗戦を唱え、妹婿の大窪久光、馬場政直らと水戸城奪還を企てるものの失敗。捕らえられ、慶長7年(1602年)磔刑に処せられた。 また、咳をしたため発見され捕らえられたと伝わっており、そのためか捕らえられた場所(車塚)で「咳の神様」を祭っている。幕末時代に吉田松陰が水戸に訪れた時、車塚に通りかかり、この話に深く感動したという。また、近くには吉田城跡があり、佐竹氏時代の車丹波守の居館と推定される。 なお、嫡男(弟とも)の善七郎は、江戸浅草の非人頭「車善七」の初代であるという説がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「車斯忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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