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三条家(さんじょうけ、正字体:三條)は、藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は清華家。明治以降は華族として三条実美の功により公爵を授けられた。家業は笛と香道。家紋は唐菱花(三条花角、三条家花角とも)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。やはり家号を略して単に「三条」と呼ばれることもあった正親町三条家や三条西家とは区別して、転法輪三条家(てぼりさんじょうけ)と呼ぶこともある。 明治維新までに三条家が輩出した公卿の数は39名。うち太政大臣まで昇った者が5名、左大臣まで昇った者が5名、右大臣まで昇った者が8名、内大臣まで昇った者が7名となっている。大臣家の正親町三条家と三条西家を筆頭に分流も多くある。 ==歴史== 閑院流は、白河院政・鳥羽院政期に上皇・天皇の外戚の地位をほぼ独占し、摂関家の弱体化の間隙を突いて廟堂に重きをなした。閑院流の嫡流である藤原公実の二男実行を祖とするのが三条家である。実行は八条とも称したが、子の公教、孫の実房が三条高倉に屋敷を構えたことから、三条の家号が定まった。 2代公教は鳥羽上皇の後見役として権勢をふるった。3代実房は「愚昧記」の著者として知られ、公事の師と仰がれていた。実房の跡は、長男の公房が継ぎ、父と同じく三条を称したが、三男の公氏も三条を称したため、公房の流を転法輪三条(てぼりさんじょう)、公氏の流を正親町三条(おおぎまちさんじょう)と呼び区別するようになった。 戦国時代の当主三条公頼は、防長二国の戦国大名大内義隆を頼って山口に滞在していたが、その地で大内家の重臣陶隆房の反乱に巻き込まれ、殺害されている。公頼の跡を継いだ養子実教も早世したが、分流の三条西家から実綱が養子に入って家名を保った。 江戸時代の家禄ははじめ269石余、のちに469石余。公家としての家格は摂家に次ぐ清華家で、代々、笛と装束の調達を家業とした。 幕末・明治時代には、明治維新の功臣三条実万・三条実美父子を輩出している。特に三条実美は、内閣総理大臣が置かれるまでの日本の首相にあたる右大臣や太政大臣の職を務めたことで著名である。 1884年の華族令の施行に当たり、旧清華家の当主は原則として侯爵とされたが(徳大寺家と西園寺家は後に公爵に陞爵)、三条家のみは、当主実美が維新に勲功があったとして、当初より公爵に叙された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三条家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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