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辛(しんどん、? - 1371年)は、高麗末期、恭愍王の時代の僧。法名は遍照。辛は俗姓、は還俗での名。父は不詳。母は桂城県玉川寺の奴婢。(東國僧尼)〔 東國僧尼によれば、 辛(初名遍照。本玉川寺婢之子以母賤。不齒於其徒) 恭愍王。嘗夢人拔劍刺己。有僧救得免。王志之。 會金元命以遍照。見其貌。惟肖。王大異之。與語頗辯給。 自謂得道。王大悅。屢召入。李承慶見之曰。 亂國家者。必此也。鄭之雲亦以為妖人。欲殺之。 王密令避之。二人既死。乃長髮為頭陀。名辛。復來謁。 始入用事。稱為師傅。咨訪國政。言無不從。 人多附之。士大夫之妻妾。以為神僧。聽法求法而至。 輒私焉(麗史提綱)。 右正言李存吾曰。妖物誤國。不可不去。遂上疏曰。 辛常騎馬出入紅門。與殿下並據胡床。 其在家寄相拜庭下。皆坐待之。雖崔元金仁俊。 亦未有如此云云。主大怒。命焚其疏。召存吾面責之。 時辛與王對床。存吾目叱之曰。老僧何得無禮。 惶駭不覺下床。王愈怒。下巡軍獄鞠之。 貶為長沙監務。 王納王氏安氏為妃。一日宴。二妃侍立。 辛謂王曰。二妃年少。聖體不已勞乎。其褒慢無禮類此。 玄風人郭儀。過俗節。備酒饌往靈山。奠父墳。 不相識。聞之驚喜。召拜正言(並麗史)。 以遍照。 為守正履順論道燮理保世功臣壁上三韓三重大匡領都僉議使司事判監察司事鷲城府院君提調僧司事兼判書雲觀事。 始稱姓辛。改名。〕諡号清閑居士。当初王の信頼も篤かったが〔正言李存吾上疏請誅辛〕、僧の品位〔長髪、妻妾等〕に欠けるほか、傍若無人な振る舞いで〔濯享王王引辛入見王安兩妃〕信任を失い、謀叛の計画も失敗に終わり流刑後〔辛謀反流于水原〕 処刑された。なお、第32代高麗王の王禑は高麗史上は辛の子として扱われ、それ故辛禑と呼ばれ、その子 第33代高麗王、王昌も辛昌と呼ばれている。従って、彼らは正当な高麗王の家系でなく王位継承権が無く、王位を禅譲された李氏朝鮮の太祖李成桂が正当な高麗の王位継承者と記述されている。〔 李氏朝鮮王朝の成立後、明からの歴史書等輸入を厳しく禁止、焚書政策をも行なうほかに、高麗時代の様々な歴史書をも次々と焚書し、自ら編纂した高麗史だけを正当な正史としている。加えて辨誣外交を通じて明の歴史書への書き換えをも要求していた。 *李 成桂『明清史書の朝鮮記事に対する朝鮮の是正外交』 京都大学文学研究科21世紀COEプログラム 東アジアにおける国際秩序と交流の歴史的研究 ニュースレターNo. 2003.5 〕 == 略年表 == *1364年 恭愍王と会う。 *1365年 真平侯に封ざれた. :守正履順論道燮理保世功臣壁上三韓三重大匡領都僉議使司事判重房監察司事鷲山府院君提調僧司事兼判書雲觀事 *1366年 田民弁正都監を設け、辛 判事となる。 *1369年風水説で王に遷都計画、自らを五道都事審官にの提案 : 国王暗殺計画→水原に流される〔辛謀反流于水原〕 *1371年 処刑 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「辛ドン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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