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辛祥(しん しょう、464年 - 518年)は、北魏の官僚・軍人。字は万福。本貫は隴西郡狄道県。 == 経歴 == 辛鳳達の子として生まれた。司州の秀才に挙げられた。司空行参軍となり、主簿に転じた。太傅の元丕が并州刺史となると、辛祥は元丕の下で府属となり、建興郡太守の任を代行した。咸陽王元禧の妃が辛祥の妻李慶容の妹であったため、501年(景明2年)に元禧が反乱を起こすと、親族の多くは失脚したが、辛祥はひとり連座を免れた。并州平北府司馬に転じた。刺史が喪中にあり、辛祥は代わって并州の事務を代行した。辛祥が并州の司馬だったとき、白壁の帰還兵の薬道顕が誣告を受けて賊とされたが、辛祥は道顕を弁護する上申をした。1月あまりして、別に真犯人が捕らえられた。 後に郢州龍驤府長史に任じられ、義陽郡太守を兼ねた。508年(永平元年)、豫州懸瓠の城民の白早生が反乱を起こし、南朝梁が反乱を支援すべく兵を出したため、淮水流域の駐屯地は相次いで梁に降ったが、ひとり辛祥が城を堅守していた。ときに梁の将軍の胡武城・陶平虜が郢州の南の金山の上に陣営を連ねて進攻してきた。辛祥は偽って後退して梁軍を油断させ、梁軍が備えを怠ったところを夜襲して撃破した。陶平虜を捕らえ、胡武城を斬って、郢州から梁軍を駆逐した。論功により勲功は郢州刺史の婁悦より上とされ、婁悦はこのことを恥じて、辛祥を刺史とするよう上奏したが、その人事は行われなかった。 511年(永平4年)、劉龍駒が華州で乱を起こすと、辛祥は永安王元燮の下で華州征虜府長史となり、別将として討胡使の薛和とともに劉龍駒を討ち滅ぼした。518年(神亀元年)、死去した。享年は55。529年(永安2年)、冠軍将軍・南青州刺史の位を追贈された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「辛祥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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