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辻 政信(つじ まさのぶ、1902年(明治35年)10月11日 - 1968年(昭和43年)7月20日〔)は、日本の陸軍軍人、政治家。軍人としての最終階級は陸軍大佐。 ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導し、軍事作戦指導では「作戦の神様」と讃えられた。 その一方で、指揮系統を無視した現場での独善的な指導、部下への責任押し付け、自殺の強要、シンガポール華僑粛清事件、バターン死の行進における偽の捕虜処刑命令などの戦争犯罪への関与、戦後の戦犯追求からの逃亡などについて多くの批判がある〔生出寿『悪魔的作戦参謀辻政信 稀代の風雲児の罪と罰』光人社文庫、1993年〕。 敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち、戦記を発表しベストセラーとなった。政治家に転身し衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)を歴任した。参議院議員在任中の1961年4月に視察先のラオスで行方不明となり、1968年(昭和43年)7月20日に死亡宣告がなされた。 == 生涯 == === 幼年学校、士官学校と陸軍大学校 === 石川県江沼郡東谷奥村今立(現在の加賀市山中温泉)で4人兄弟の3男として生まれた。父の亀吉は炭焼きで生計を立てており、集落の中でも比較的裕福な家庭であった。山中高等小学校から苦学の末、1918年(大正7年)、名古屋陸軍地方幼年学校に補欠で入学したが、首席で卒業した。陸軍中央幼年学校では西竹一らが同期にあたる。陸幼を経て陸軍士官学校 (陸士)(36期) に入学し、予科二年間を終了後には士官候補生として金沢に駐屯する歩兵第7連隊に6ヶ月配属され、その後本科へと進み1924年(大正13年)7月に陸士を卒業した。幼年学校と同様に士官学校も首席で卒業しており、恩賜の銀時計を拝領している。見習士官として再び歩兵第7連隊に配属され、三ヵ月後に少尉に任官した。1927年(昭和2年)に中尉に昇進し、翌年に陸軍大学校(43期)に入学、三年間の学務を経て1931年(昭和6年)11月に陸大を卒業した。卒業時の成績は首席の天野正一と次席の島村矩康に続く3番であり、恩賜の軍刀を拝領している。陸大での同期には秩父宮雍仁親王がいる。 辻が金沢の第7連隊に戻ってからしばらくして、中華民国の上海において第一次上海事変が発生した。第9師団も動員され、辻は第7連隊第二中隊長として上海に出征、負傷。翌年5月に上海停戦協定が調印され部隊が日本に帰還した後には、師団を代表して実戦の様子を偕行社で演説し、新聞でも彼の名が報じられている。同年9月には参謀本部付となり、第一課に配属された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「辻政信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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