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辻 昌建(つじ まさたて、男性、1978年11月16日 - 2009年3月24日)は、日本のプロボクサー。広島県広島市出身。帝拳ボクシングジム所属。崇徳高等学校、法政大学卒業。 == 来歴 == 中学時代までを似島で過ごし、その後、広島市へ移った〔広島で故・辻選手の納骨式 西岡、リナレスも墓参 ボクシングニュース「Box-on!」 2009年8月9日〕。アマチュア時代は、高校でインターハイベスト8、大学で国体ライトフライ級準優勝の成績を残した。大学時代はボクシング部の主将も務めた〔長嶋史上初日本&東洋2階級 日刊スポーツ 2009年3月30日〕。 2002年10月19日、プロデビュー戦では久田恭裕に2-0の判定勝利を収めた。2003年11月18日、熊田和真に2-1(59-57、59-57、58-59)の判定勝利。2004年4月2日、黒木健孝に3-0(78-74、78-76、78-76)の判定勝利を収めた。 2005年5月21日、熊田和真と再戦し、0-3(76-79、76-79、76-77)の判定でプロ8戦目にして初黒星を喫した。同年12月10日、沖縄・北谷ドームで行われた米須啓との6回戦に3回KO勝利を収めて再起を果たした。他のプロ公式試合15戦はいずれも後楽園ホールで戦った。 2006年3月18日、斎藤直人との8回戦は三者三様の判定で引き分けとなった。この試合中、左拳を骨折し、1年間のブランクを余儀なくされた〔30歳辻、タイトル初挑戦 21日にボクシング日本王座決定戦 中国新聞 2009年3月17日閲覧〕。2007年3月17日、ブランク明けのリングでは過去に2戦1勝1敗となっていた熊田和真に3-0(78-74、78-76、77-76)の判定勝利を収めた。 2008年7月1日、日本タイトル挑戦権獲得トーナメントミニマム級準決勝で八重樫東に2-0の判定勝利を収めた〔辻、八重樫破る-最強後楽園開幕 「月刊ボクシングワールド」オフィシャルサイト 2008年7月1日閲覧〕。同年10月8日、同トーナメント決勝で堀川謙一に2-1の判定勝利を収めて優勝し、日本王座への挑戦権を獲得した。日本ミニマム級王者黒木健孝がOPBF東洋太平洋同級王座獲得後の12月20日に日本王座を返上し、同王座は空位となった。 2009年3月21日、チャンピオンカーニバルで行われた日本ミニマム級王座決定戦では、日本1位・OPBF2位・WBC18位として、日本3位・OPBF6位の金光佑治と対戦した。ダウン経験のない両選手の試合は開始とともに激しい打ち合いとなり、最終回に辻はロープダウン〔ロープがなければダウンしていたとレフェリーが判断した際にとられるダウンと解釈されるが、現行のルールブックにはない。選手が受けたダメージの度合いに対する判断としてはスタンディングダウンと同等に扱われるが、スタンディングカウントも1998年2月以降は廃止されている。詳細はノックダウンの項を参照。〕からカウントアウトされ、KO負けとなった。この直後リング上で意識不明となり救急搬送された。 急性硬膜下血腫の診断で開頭手術を受けたが、意識が戻らないまま、3日後の3月24日入院先の病院で死去した〔辻選手が死亡 KO負け後に意識不明 デイリースポーツ 2009年3月25日閲覧〕。同月25日に通夜、26日に告別式がいずれも東京・港区の増上寺で、同年8月9日には納骨式が広島市内で営まれた〔。 一方、勝利した金光も同じく硬膜下血腫の診断により引退を余儀なくされ、レフェリングを始めとする当日のリスク管理に問題があったのではと指摘する声もあった〔ボクサーの死、根絶へ本腰 王座戦の悲劇きっかけ JBC(1/2ページ) 朝日新聞 2009年7月1日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「辻昌建」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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