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辻本恭史 : ミニ英和和英辞書
辻本恭史[つじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つじ]
 【名詞】 1. street 2. crossroad 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 

辻本恭史 ( リダイレクト:"brother"YASSHI ) : ウィキペディア日本語版
"brother"YASSHI[ぶらざーやっしー]

"brother"YASSHI(ブラザーヤッシー、1982年1月26日 - )は、日本男性プロレスラーである。本名は辻本 恭史(つじもと やすし)。京都府宇治市出身(大阪市西成区出身とコールされることもある)。南京都高等学校出身。通称はブラザー
== 経歴 ==
高校卒業後に闘龍門に入門、7期生に当たる。2000年メキシコ・アレナ・ロペスマテオスにおける大鷲透戦でプロレスデビューを果たした。日本マット初登場は吉野正人と共にみちのくプロレスに参戦。T2PではミラノコレクションA.T.らの所属するイタリアン・コネクションというユニットのメンバーであった。なお、イタリアン・コネクション時代はギミックジャマイカキングストン出身、イタリアジェノヴァ出身を名乗ったこともある。当時より受けが上手く、同じ団体でやはり受けの達人である横須賀享とのシングル(2003年2月16日)等で示されている。
闘龍門JAPANを経てDRAGON GATEではヒールのユニットである「悪冠一色」で下品なマイクパフォーマンスなどで人気があったが2004年末に近藤修司らとともにリング外における素行不良・職務怠慢で解雇される。
2005年2月に近藤とともにVOODOO-MURDERSに加入。以来全日本プロレスを主戦場とする。口の巧さと嫌われ者キャラクター、気持ちいいまでの受け(やられっぷり)で、同団体のレギュラー格となった。同年7月からはドラゴンドア興行へ参加。2006年2月23日以降はドラゴンドアの後継団体プロレスリング・エルドラドに所属している。
2006年に入り、5月28日には佐々木健介とのシングルマッチ(通称「公開処刑」)が実現。体格で大きく劣る健介に立ち向かうにあたり、「これならカス野郎の逆水平も耐えられる」として、剣道の防具を装着して入場。しかし、リングに上がった直後に頭が大きすぎて被るのが辛かったのか面を取ったためにダイレクトに攻撃を受ける結果となる。当の健介も「面を被っていればよかったのに」と語っている(後に健介はブラザーとのシングルを今後も続けたいと話している)。さらにこの後通路で休んでいたらメーンの武藤と諏訪魔の場外乱闘に巻き込まれて武藤に踏みつけられ、「二次災害や」と散々な目に遭う。さらにこの後には、相手の攻撃からやっとのことで逃げ出したのに、仲間であるはずのVMメンバーに連れ戻されさらに痛めつけられたり(TARU曰く『こいつはやられるのが仕事』)、会場にたまたまあった檻の中に閉じ込められながらも「今日はこの辺で勘弁したるわ!」と叫んで見せたりと、「いじられキャラ」ぶりに磨きがかかり、ヒールの枠を超えた人気を集め始めた。
同年6月のジュニアシングルリーグではいつものスタイルではなく、黒のショートパンツで試合をしたが、全敗。「ストロングスタイルを見せたる」と大見得を切ったのはよかったのだが、それを逆手に取られてしまい、2006年7月3日の大田区体育館興行では、「ブラザーストロングスタイル体感マッチ」と称した健介との再戦が行われ(この時のリングネームはパワーウォリアーを真似たヤッシーウォリアーであった)、健介にはおろか乱入した北斗晶にまで叩きのめされる。なお"strong"YASSHIが初登場したのは闘龍門JAPANにおけるストロング市川(ストーカー市川)戦でこの時は白のショートタイツで登場。試合自体はドン・フジイの介入によりストーカー市川が念願の勝利、と思いきやブラザーはわざと試合に負けることで市川の「闘龍門最弱」というアイデンティティを奪ってしまったのであった。
2006年7月23日、石川県産業館で行われた全日本プロレスの試合で、出場予定の健介が目の怪我で欠場したため、プロレス現役引退を間近に控えた馳浩が地元ラストマッチを行うという名目で健介の代わりに出場することが決まった。これを知ったYASSHIは自分が少年時代から馳のファンであったことを明かし(これ以前にも、学生時代馳の著書を愛読していたことを明かしている)、対戦相手に立候補し、武藤敬司小島聡・馳浩との対戦(TARU・近藤組)が実現した。試合前にYASSHIは(スーツを着た)馳の顔写真入りの緑茶を飲みながら「俺は政治家じゃないレスラー時代の馳が好きだったんや」と叫んだ。
さらに8月27日の両国国技館大会では、馳の最後の試合の対戦相手を務めることとなった。この試合では、観戦していた森喜朗元首相を得意のマイクで罵倒し場外乱闘一歩手前にまで持ち込むという暴挙に出た。2006年12月に小島と対戦するも敗北した。
2007年4月30日、世界ジュニア王者・中嶋勝彦に挑戦するも敗北。8月11日、総合格闘技イベント「HEAT 4」で"brother"YASSHIとして総合格闘技に初挑戦(対戦相手は久米鷹介)するも、2R3分7秒チョークスリーパーでレフェリーストップ負け。
前年に続けて2008年も1月4日の新日本・東京ドーム大会出場が決定したのに先立って、2007年12月24日の新日後楽園大会に来場。ドームでの対戦相手となる長州力に対して「団体経営に失敗した出戻り」と長州にとって「消したい過去」とも言える事実に基づく挑発を行い、ファンから喚声を浴びた。その長州と2月とはカスイチで対戦し、リキラリアットを喰らった際に首を負傷し長期欠場に追い込まれた(2分足らずの秒殺だった)。
2008年10月、ElDoradoから離脱、その後ElDoradoが活動休止となった。親会社ソウル・コネクション所属となる。
2009年1月3日の全日本プロレス・後楽園大会のジュニアヘビー級バトルロイヤルで自身3度目の優勝を果たした。しかし、試合後に2月シリーズを最後にプロレスを休業すると発言し、2月6日の後楽園大会でかつての盟友・近藤との一騎打ちを全日本に要求、実現した。
2009年2月15日の地元・京都大会、YASSHI&TARU対諏訪魔&近藤戦をもってプロレスラー活動にピリオドを打つこととなったが、試合終了後に武藤がシングルマッチを申し入れボーナスマッチも実現、10カウントゴングで送り出された。
2011年3月21日の全日本プロレスの両国国技館でのチャリティー大会にて、試合には参加しなかったもののTARUの呼びかけに応じて久々にリング上に姿を現した。
2012年12月9日、ダイアモンドリングに乱入。
2012年12月23日、拳剛(旧:西村賢吾)とブードゥーマーダーズ再始動を発表。
2014年7月27日、全日本プロレスのリングに5年ぶりに一人で登場し、リング上で参戦を要求。"brother"YASSHI個人として出場したが、リング上でブードゥーマーダーズを投入すると宣言するも、全日本プロレスからは拒否され、それだけでなくYASSHI本人も出場を拒否される事態となり、出場予定だった次期シリーズの出場も白紙となってしまった。
2016年1月24日、地元京都で京都カス野郎プロレスを開催。
2月4日、吉野正人に呼びこまれ11年ぶりにDRAGON GATEのリングに登場し土井成樹を挑発吉野としゃちを除く初対面の選手からリング上で自己紹介をされた。また土井&YAMATO対吉野&YASSHIも同時に決定。
2月17日、CRYSIS興行に参戦しメインイベント終了後ブードゥーマーダーズの脱退を発表。
3月4日、DRAGON GATE後楽園ホール大会に参戦し吉野とのタッグで土井&YAMATO組を相手に対戦するもBOX攻撃やレフェリー暴行での反則負けとなる。
3月20日、WRESTLE-1千葉Blue Field大会に来場。試合後の控え室にて、同団体のユニット¨TriggeR¨に加入することを宣言した。
3月21日、WRESTLE-1山形大会にも来場し近藤修司と接触を図るも結局近藤には会えず、芦野祥太郎にはイロモノ呼ばわりされた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「"brother"YASSHI」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yasushi Tsujimoto 」があります。




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