|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 近代 : [きんだい] 【名詞】 1. present day ・ 代 : [よ, しろ] 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation ・ 法 : [ほう] 1. (n,n-suf) Act (law: the X Act) ・ 祖 : [そ] 【名詞】 1. ancestor 2. forefather 3. progenitor
山田 顕義〔学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「山田顕義」、新聞報道や『職員録』など存命中の印刷物における表記は「山田顯義」、御署名原本(法令などの天皇署名の原本)における山田本人の署名は「山田顕義」である。〕(やまだ あきよし、天保15年10月9日(1844年11月18日) - 明治25年(1892年)11月11日)は、日本の江戸時代末期(幕末)の武士(長州藩士)、明治時代の政治家、陸軍軍人。諱は顕孝、のち顕義と改めた。幼名は市之允(いちのじょう)。号は「養浩斎(ようこうさい)」、「狂痴(きょうち)」、「韓峰山人(かん お(ね) さんじん)」、「不抜(ふばつ)」など。特に「空斎(くうさい)」と表記されることが多い。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等伯爵。日本の「小ナポレオン」といわれた。 明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典を整備した〔、〕。 長門国・現山口県萩市出身。最年少の14歳で入門し、吉田松陰が営む松下村塾最後の門下生となる。25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮官をとる。その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」との名言がある。岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典(刑法、刑事・民事訴訟法、憲法、民法、商法、裁判所構成法など)を編纂した。 == 生涯 == === 誕生から松下村塾入塾まで === 天保15年(1844年)10月9日、長門国阿武郡椿郷東分〔山田本人が明治政府に提出した『履歴書』では「長門国阿武郡松本村」と記している〕(現・山口県萩市)で、長州藩士である山田七兵衛顕行(村田光賢の子で山田家の養子となった山田龔之の子、大組士、禄高102石、藩海軍頭)の長男として生まれる。一門に村田清風・山田亦介・河上弥市らがいる。 叔父、兵学者・山田亦介をもつ家系の跡継ぎでいながら、幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた。 安政3年(1856年)、松本村の新山直衛塾に学ぶ。2月、伯父の山田亦介により、中村九郎と竹内竹叢から兵学を教授される。3月、藩校明倫館に入って師範の馬来勝平から剣術(柳生新陰流)を学び、文久2年(1862年)には柳生新陰流伝中許を得ている 。安政4年(1857年)6月、松下村塾に入門した〔。 安政5年(1858年)、吉田松陰から「与山田生」(詩)「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」と立志の目標が書かれた扇面を与えられる。その内容は「立志は特異を尚(たっと)ぶ、俗流はともに議し難し、身後の業を思はず、且(か)つ 目前の安きを偸(ぬす)む、百年は一瞬のみ、君子 素餐することなかれ〔現代語訳すると以下の通り。〕」である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山田顕義」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yamada Akiyoshi 」があります。 スポンサード リンク
|