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近江宮(おうみのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)飛鳥から近江に遷都した天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。 史料には、近江大津宮(おうみのおおつのみや)、大津宮(おおつのみや)、志賀の都(しがのみやこ)とも呼称されるが、本来の表記は水海大津宮(おうみのおおつのみや)であったとの指摘がある〔櫻井信也「「大津宮」の宮号とアフミの表記」『近江地方史研究』第32号、1996年〕。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。 == 概要 == === 背景 === 斉明天皇6年(660年)百済が新羅と唐に攻められて亡んだ。倭国(後の日本)にとって百済は同盟国であり、国外にある防波堤でもあったため、当時の倭国の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。しかし、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。 百済復興戦争の敗北は、中大兄政権にとって大変な失策であり、国外に大きな脅威を抱えることとなった。そのため、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城(例えば、筑前にあった大野城)や連絡施設を築くとともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置して、防備を固めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「近江宮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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