翻訳と辞書
Words near each other
・ 近藤修司
・ 近藤健
・ 近藤健一
・ 近藤健介
・ 近藤儀智
・ 近藤優
・ 近藤元久
・ 近藤元次
・ 近藤光
・ 近藤光世
近藤光史
・ 近藤光男
・ 近藤光男 (中国文学)
・ 近藤光男 (中国文学者)
・ 近藤光郎
・ 近藤克則
・ 近藤克彦
・ 近藤公園
・ 近藤公夫
・ 近藤共弘


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

近藤光史 : ミニ英和和英辞書
近藤光史[こんどう みつふみ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 

近藤光史 : ウィキペディア日本語版
近藤光史[こんどう みつふみ]

近藤 光史(こんどう みつふみ、1947年(昭和22年)7月12日 - )は、元・毎日放送アナウンサー。現在は、昭和プロダクション所属のフリーアナウンサーとして、関西を中心に活動している。身長170cm。
愛称は「コンちゃん」。出演番組などでの自己紹介で、「コンちゃん、近藤光史です」と言うことが恒例になっている。
岡山県岡山市の生まれで、2009年(平成21年)には社団法人(現・公益社団法人)岡山県観光連盟から「おかやま観光特使」、2015年(平成27年)には宮崎県から「みやざき応援大使」を委嘱されている。
== 来歴 ==
岡山市生まれの大阪市阿倍野区兵庫県西宮市育ち〔著書『夢が我が家にやってきた』第6章第1節「夢が我が家にやってきた!」を参照。生後2~3歳まで岡山市で過ごした後に、実父の仕事の都合で、5歳頃まで阿倍野区に住んでいた。〕。1963年(昭和38年)4月西宮市立西宮東高等学校へ第1期生として入学した。
高校時代には山岳部に所属。卒業後に学習院大学文学部へ進学したが、再受験を経て翌年に早稲田大学社会科学部へ入学した〔近藤が入学した当時は、14:00から夜間まで開講する夜間学部(第二部)であった。〕。早稲田大学への入学後は、放送研究会アナウンス部からの出向扱いで、「ナレオ・ハワイアンズ」(同大学の音楽クラブに所属するハワイアンバンド)のライブ司会者として活動していた〔『夢が我が家にやってきた』第4章第1節「音楽と私」より。近藤の在学当時は、東京を中心に、日本各地で学生バンドのライブが頻繁に開かれていた。そのため、近藤は大学生でありながら、司会者としてのギャラだけで当時の大企業の管理職に相当する収入を得ていたという(p.168を参照)。〕。
1971年(昭和46年)4月に、アナウンサーとして毎日放送へ入社した。同期のアナウンサーは、野村啓司(現在はフリーパーソナリティ)と平松邦夫(後の大阪市長)。アナウンサーではないが、同局現社長の河内一友も同期生に当たる。
毎日放送への入社後は、『ヤングおー!おー!』『MBSヤングタウン』『スタジオ2時』などの公開番組や、MBSラジオの生放送番組『6時半です。おはようコンちゃん』『でんわ大好きKYU-KAN-CHO』などに出演。出演番組では、「胴間声(どうまごえ)」と自称するほどの大声による関西弁での司会・フリートークなど、お笑い芸人顔負けの個性を発揮していた。
また、小池清がアナウンサー室長を務めていた1983年には、小池の依頼で先輩アナウンサー(当時)の斎藤努とともに『あどりぶランド』(局アナが全員揃って出演する日本初のテレビ番組)の企画を立案。1984年1月から同番組の放送を開始してからは、数々のキャラクター("ハジソン博士"など)を演じたり、番組恒例の時代劇企画で歴史上の人物(『水戸黄門』の格さん)に扮したりすることが多かった。1984年度のアノンシスト賞で、毎日放送アナウンサー室がグランダ・プレミオ(大賞)を受賞した企画「旧札vs新札」では、伊藤博文役を演じている。
1989年の人事異動では、アナウンス室に籍を置いたまま、毎日放送千里丘放送センターなど数カ所に分散していた同局の本社・制作機能を現在の社屋(大阪市北区茶屋町)へ集約させるための社内プロジェクト(茶屋町再開発プロジェクト)チームにも配属。やがて、チームの活動に専念するため、アナウンス室を離れた〔『夢が我が家にやってきた』第1章第3節「虫下しの日々始まる」pp.30-31より。同書によれば、当時の社長・斎藤守慶が近藤や藤本永治(当時のアナウンサー室長)に相談することなく辞令を出したため、当初はアナウンサーとの兼務扱いでプロジェクトに携わっていたという。〕。しかし、1992年(平成4年)8月、当時の妻の健康上の事情などを理由に毎日放送を退職した。
退職後は、「(毎日放送への)入社直後に出張で訪れた際に見た綺麗な海を忘れられなかった」などの理由からタヒチへ移住。現地で日本人向けの海外挙式会社を設立すると、タヒチ観光局から正式に観光業者としての登録を受けた〔『夢が我が家にやってきた』第1章第2節「最後の楽園から」p.24を参照。〕。1997年3月にはニューカレドニアにも、同種の会社を立ち上げている。フランスがタヒチ近海で核実験を実施した1995年(平成7年)以降は、風評被害が観光に及ぼす影響を払拭すべく、NHKやタヒチのテレビ局のインタビューに登場。タヒチ観光局からの依頼で、日本のテレビ局に対して、観光立国タヒチの安全を訴えるPR活動を展開したこともある〔『夢が我が家にやってきた』第1章第1節「虫が湧いた日」pp.16-19を参照。近藤がタヒチで経営した会社では、結婚式などの撮影用に、現地で唯一日本のテレビ放送規格に見合った機材を保有していた。そのため、(毎日放送・NHKを含む)日本の放送局が核実験関連の取材でタヒチを訪れるたびに、近藤が「元・放送人」のよしみで上記の機材を貸与したという。〕。
2000年(平成12年)9月日本へ帰国(詳細はエピソード#タヒチからの帰国・放送業界への復帰を参照)。翌月には、MBSラジオの新番組『こんちわコンちゃん2時ですょ!』(現在の『こんちわコンちゃんお昼ですょ!』)で、ラジオパーソナリティとして同局の番組に復帰した。以降は、同番組を中心に、フリーアナウンサーとして活動の幅を広げている。
2003年(平成15年)9月から半年間、『こんちわコンちゃん』と並行して、読売テレビの『情報満載 ひるまで!すっぴん!』で司会を担当。毎日放送以外の放送局の番組へ、初めてレギュラーで出演した。2007年(平成19年)1月には、「ドラマ30」シリーズの『家族善哉』(MBS制作・TBS系列)に友情出演。2009年(平成21年)9月18日には、『こんちわコンちゃん』の放送2000回到達(同年9月25日)を前に、阪神甲子園球場でのプロ野球公式戦(阪神タイガース広島東洋カープ)で人生初の始球式を経験した。『こんちわコンちゃん』の中で、学生時代走るのが速かったと自慢している。
また、『こんちわコンちゃん』の企画で、自身の作詞・歌唱による楽曲「寿(ことぶき)」のCDを製作。2010年(平成22年)12月には、同番組月曜日で共演中の大平サブロー芸能生活36年記念舞台「あかんたれ芸人の詩」に、寄席の支配人役で出演した。2009年からは、同番組とローソンコラボレーション企画で、地域・期間限定発売の食品をプロデュース。2012年(平成24年)9月1日には、自身の半生や『こんちわコンちゃん』の番組史などをまとめた初の著書『こんちわコンちゃんお昼ですょ! 夢が我が家にやってきた』(以下『夢が我が家にやってきた』と略記)を発売した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「近藤光史」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.