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近藤 兵太郎(こんどう ひょうたろう/へいたろう、1888年 - 1966年5月19日)は、日本人の野球指導者。愛媛・松山商や、台湾台南州立嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)野球部などで監督を務めた。松山商野球部を初の全国出場に導くなど戦前の黄金時代の礎を築いた監督として、また日本統治下の台湾の嘉義農林学校を率いて甲子園に出場し、準優勝に導いたことで台湾野球史にもその名を残した。 == 略歴 == 1888年(明治21年)に愛媛県松山市萱町で生まれ、愛媛県立松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高等学校)卒業。1918年(大正8年)に松山商の初代・野球部コーチ(現在の監督にあたる)となり、翌1919年に松山商を初の全国出場(夏ベスト8)へと導く。 1919年秋、野球部コーチを辞任すると台湾へ赴き、1925年(大正14年)に嘉義商工学校に簿記教諭として着任。そして1928年(昭和3年)頃から同じ嘉義にある嘉義農林学校の野球部の教練として放課後になると出かけて指導し、1931年(昭和6年)に監督に就任した。 1931年(昭和6年)、嘉義農林を第17回全国中等学校優勝野球大会においてチームを初出場ながら決勝まで導いた(全国中等学校優勝野球大会は、現在の全国高等学校野球選手権大会である)。決勝では、吉田正男を擁しこの年から史上唯一の3連覇を達成する事になる中京商に0-4で敗れ、準優勝に終わった。 結局監督として松山商業時代に夏1回、嘉義農林時代は春1回、夏4回甲子園に出場した。 1946年に日本に引き揚げ、晩年は新田高等学校(1952~54年)、愛媛大学などで野球部監督を務めた。 主な教え子に藤本定義、森茂雄(以上松山商)、呉明捷、呉昌征、今久留主淳、今久留主功、呉新亨(以上嘉義農林)などがいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「近藤兵太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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