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近藤 富蔵(こんどう とみぞう、文化2年5月3日(1805年5月31日) - 1887年(明治20年)6月1日)は旗本近藤重蔵(近藤守重)の長男として生まれる。諱は守真(もりざね)。一家殺傷事件により八丈島に流罪になり、井伏鱒二の『青ヶ島大概記』の種本となった『八丈実記』を著した。 ==経歴== 富蔵は、千島や択捉島の探索をした近藤重蔵の息子として生まれたが、幼少のころから素行が悪かったという〔河合敦、中経出版、2011〕。父親は本宅のほかに、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒2-1)に広大な遊地を所有しており、文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した山(富士塚)を造園した〔 目黒区役所公式サイト〕〔『芸苑一夕話』 市島春城著 (早稲田大学出版部, 1922)〕。目黒新富士、近藤富士、東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れた〔。この新富士の管理を父親から任された富蔵は、農夫の塚原半之助に頼まれて蕎麦の露店用の土地を貸したが、家賃の未払いから諍いが生じた〔 薄恕一, 青木秀虎 著 (国文館書店, 1914)〕〔『超常識と没常識 : 人間の裏と表』蒼海楼主人, 東海山人著 (日本書院, 1920) 〕。1826年(文政9年)博徒あがりの町人(農夫とする説も)、塚原半之助と父重蔵が持つ別荘(前述の新富士のこと)の地所境界争いから、塚原半之助とその妻や母親、子供計7名を殺傷し、その罪から同年に伊豆諸島の八丈島に流罪の判決。俗に言う「鎗ヶ崎事件」である。翌1827年(文政10年)八丈島へ。 流人生活の間に、「八丈実記」72巻(清書69巻)を著作。その著作は「八丈島の百科事典」とも呼ばれ、この地域の研究者にとって貴重な資料となっている。柳田國男は富蔵を「日本における民俗学者の草分け」と評した。 1880年(明治13年)2月27日、明治政府より赦免を受け53年間の流人生活を終える。赦免後のその年一旦は本土に戻るが親戚への挨拶回り、近江国大溝藩内円光禅寺の塔頭瑞雪院にある亡父重蔵への墓参、西国巡礼を済ませ(巡礼の帰途、現在の和歌山県白浜町城から小川の間で倒れたが、通りがかりの者に助けられ事なきを得ている)〔久保田暁一、近藤重蔵とその息子、PHP研究所(PHP文庫)、1991年、ISBN978-4569563244〕、2年後の1882年(明治15年)再び八丈島に帰島し、その後一観音堂の堂守として、島で生涯を終えた。享年83。島にある開善院善光寺に墓石がある〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「近藤富蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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