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近藤昌宜 : ミニ英和和英辞書
近藤昌宜[しょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 

近藤昌宜 ( リダイレクト:近藤勇 ) : ウィキペディア日本語版
近藤勇[こんどう いさみ]

近藤 勇(こんどう いさみ)は、江戸時代末期の武士新選組局長を務め後に幕臣に取り立てられた。勇は通称昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛、のちに大久保大和。家紋は丸に三つ引。
== 生涯 ==

=== 出生から試衛場入門 ===
武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれる〔。幼名勝五郎、後に勝太と改める〔。久次郎には勝五郎の他に、長女・リエ(天保3年(1832年)に死去)、長男・音五郎(音次郎)、次男・粂蔵(くめぞう、粂次郎、惣兵衛)がいる。ほか、祖父の源次郎がいる〔。天保9年の上石原村の宗門人別改帳に拠れば、宮川家は多摩郡大沢村(三鷹市)の龍源寺の檀家で、高七石一升二合の6人家族〔。石高から中流クラスの上層の家庭環境であったと判断される〔 。
嘉永元年(1849年)11月11日、勝五郎は江戸牛込(東京都新宿区)に所在する天然理心流剣術道場・試衛場に入門する。勝五郎が入門した道場は「試衛館」として知られるが、多摩郡蓮光寺村(多摩市)の名主・富沢政恕日記および小島鹿之助『両雄士伝』に拠れば「試衛」は号で、「試衛場」と記されている〔。
翌嘉永2年6月には目録を受ける〔。同年10月19日には近藤周助(近藤周斎)の養子となり、周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗る〔。のちに正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。安政5年(1858年)には日野宿(日野市)の牛頭天王社(八坂神社)の奉納額に「島崎勇藤原義武」と記している〔。
万延元年(1860年)3月29日に御三卿・清水徳川家の家臣である松井八十五郎の長女である松井つねと結婚〔。
翌年8月27日には府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった〔。また、文久2年(1862年)には、つねとの間に長女・たま(瓊子)が誕生した。勇の死後、1876年(明治9年)に勇の長兄である音五郎の次男勇五郎を近藤家の養子に迎え、たまは勇五郎の妻となった〔。
勇は天然理心流の門人同士で独自のネットワークを持ち、上京後も江戸や多摩の有力門人と書簡を介して交流し、金策の要請などを行っている〔。
中でも勇が密接に交流した人物に兄の音五郎や惣兵衛、寺尾安次郎、佐藤彦五郎、小島鹿之助、沖田林太郎、粕谷良循らがいる〔。佐藤彦五郎は日野宿の名主で、天然理心流の門人となり屋敷内に稽古場も持っていた〔。小島鹿之助も多摩郡小野路村(町田市)の名主の家庭に生まれ、同じく門人となり屋敷に道場を持っていた〔。時期は不明であるが、勇、彦五郎、鹿之助の三人は『三国志演義』にならい義兄弟の契りを結んだという〔。また、鹿之介は漢学を修める教養人で、勇への思想的影響があったとも言われる〔。佐藤彦五郎や小島鹿之助は農兵隊を組織し、一部は後に甲陽鎮撫隊と名を改めた新選組に合流した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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