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近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元年12月1日) - 1944年(昭和19年)3月4日)は、日本の明治から昭和期における医学博士・外科医。東京帝国大学医学部教授・病院長。日本で最初に胃がんの手術を成功させた外科医である。〔加仁 17号「胃がんの外科と私 梶谷鐶」 http://www.fpcr.or.jp/pdf/kani/kani017.pdf〕。 == 生涯 == 概略〔「海を越えた日本人名事典」(富田仁編集 日外アソシエーツ 1985年12月10日)〕 信濃国松本藩士鶴見次喬の次男として、松本城下新町(現松本市北深志1丁目周辺)に生まれる。1891年(明治24年)7月東京帝国大学医科大学を卒業し〔「東京帝国大学一覧 1912年」(東京帝国大学)〕、卒業後同大学ユリウス・スクリバ(Julius Karl Scriba)教授の外科学教室に入局した。その年医師近藤旦平の養子となりヨーロッパに留学した。ヨーロッパではドイツのストラスブルク大学(現在はフランス)・ハイデルベルク大学・ベルリン大学、オーストリアのウィーン大学で学んだ後、フランスパリで病院施設を視察し、1896年(明治29年)に帰国した。 帰国直後よりスクリバ教授の外科学教室に入り、翌1897年(明治30年)に助教授、1898年(明治31年)に教授に昇格し第一外科講座を担当した。1899年(明治32年)論文提出により医学博士学位を授与される。1921年(大正10年)東京帝国大学医学部(単科大学より学部制に変更)附属病院長に任じられ、1925年(大正14年)大学を退官した。 退官直後に駿河台病院を設立し病院長になり、8月には郷里松本市より翌年開業予定の松本市営病院(後に松本医学専門学校附属病院)名誉医院長兼顧問を委嘱され、病院人事の一切を任される〔「市民タイムス 脚光36近藤次繁」http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kyakko/kyakko36.html〕。また、かねて東京市政に不明朗さを感じていたことから立候補し東京市会議員に当選した。1944年(昭和19年)3月4日79歳で逝去し、百貫日に当たる6月11日に創立に深く関与した「日本外科学会」・「日本臨床外科学会」・「日本医学博士会」・「日本医療器械学会」に郷里松本の関係諸団体及び長野県人会などが合同して「近藤先生追悼会」が盛大に神田駿河台の日本医師会館で開かれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「近藤次繁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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