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近藤 正臣(こんどう まさおみ、1942年2月15日 - )は、日本の俳優。本名は川口 正臣。シーズ・マネージメント所属。 == 略歴・人物 == 京都市東山区(現在の山科区域)に生まれる。母親は元祇園の芸妓(げいこ)であった。京都府立洛東高等学校に入学。演劇部に所属し、ボクシングも習っていた。高校演劇コンクールでは、銀賞を受賞している。 高校を卒業し、母親が一人で営んでいた小料理店を継ぐために大阪の吉兆で板前修行をする〔木村隆『この母ありて』 青蛙房 2010年 126頁〕。が、いわゆる伝統的日本料理界の厳しさに嫌気がさし、3か月で辞めてアングラ劇団「ドラマ工房」を作り活動する(『週刊文春』2001年10月25日号)。 京都の松竹でエキストラをしていた20歳のころ、助監督たちに「大船へ来ないか」と誘われ単身上京。東京でエキストラをしていた1965年、新橋の喫茶店で、知り合いと打ち合わせをしていたその後の事務所代表と初めて会い、簡単な紹介を受ける。 それから1年近くのち、『エロ事師たちより 人類学入門』の坂本スミ子の息子役を見つけられずにいた今村昌平に相談を受けた事務所代表が近藤を思い出し、京都に戻っていた近藤にすぐに連絡をとり、今村に会わせたのがデビューのきっかけとなる。 しかし、その後もしばらく東映京都などで仁侠映画や時代劇の端役が続く。1970年、大河ドラマ『樅ノ木は残った』の端役が決まり、NHKのプロデューサーに上京を勧められていた頃、『柔道一直線』の主人公(桜木健一)のライバル・結城真吾役が決まり、1971年、再び上京し出演したこのドラマで、一気に人気に火がつくことになる。 以後は『冬の雲』『春の嵐』『地の果てまで』と立て続けに出演。人気を決定づける。1973年には大河ドラマ『国盗り物語』で後半の中心人物・明智光秀役を演じる。 映画でも『流れの譜』(1974年、監督:貞永方久)、新幹線の運転を妨害しようとする青年医師を演じた『動脈列島』(1975年、監督:増村保造)、『赤穂城断絶』(1978年)など。『神津恭介シリーズ』などドラマ・舞台で活躍。帝国劇場で上演の『ラ・カージュ・オ・フォール』では主人公のドラァグクイーン・ザザ役で妖艶な女装姿を見せた。 関西弁を話す愛嬌のある性格で、そのキャラクターから、バラエティ番組にも多く出演し、1985年 - 1987年にはABCテレビ制作(テレビ朝日系)『クイズなんでも一番館』の司会を務めたり、金鳥「キンチョウリキッド」のCMで、タヌキや河童の被り物をしたシリーズで長らく出演。 中学時代からエルヴィス・プレスリーのファン。阪神ファンでもある。 趣味は、釣りや陶芸、山菜採り。岐阜・郡上八幡の自然に魅せられたのがきっかけで、天野礼子、野田知佑らと共に自然保護運動にも参加したこともある。1年の内4か月を郡上八幡で暮らしており、冬は薪ストーブのみで暖をとっている(2012年4月16日徹子の部屋)。海や魚をこよなく愛し、スクーバダイビングの経験も豊富、熱帯魚の飼育やアマゾン川での釣りなどの経験もあり。 アルコール飲料は本人曰く「全くダメ」。好きな食べ物はお茶漬け。嫌いな食べ物はチーズ。 大道芸人のギリヤーク尼ヶ崎と懇意で、近藤が彼に贈った幟は、毎回の大道芸の際に立てられるのが恒例。 父方の叔父に人間国宝で染付けの大家・近藤悠三(1902年 - 1985年)、曾祖父に幕末の尊攘運動家近藤正慎がいる。清水寺の境内にある舌切茶屋は近藤正慎の子孫が営む茶屋である。 『仮面ライダー』の初期企画「十字仮面」で、毎日放送側は主人公・本郷猛役に決定していた。番組宣伝用のポートレートなども作成されたが、製作日程が合わず藤岡弘に変更された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「近藤正臣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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