翻訳と辞書
Words near each other
・ 近藤重勝
・ 近藤重直
・ 近藤重興
・ 近藤重蔵
・ 近藤重雄
・ 近藤金吾
・ 近藤鉄太郎
・ 近藤鉄己
・ 近藤鉄雄
・ 近藤鎭三
近藤鎮三
・ 近藤長次郎
・ 近藤長裕
・ 近藤陽一郎
・ 近藤陽子
・ 近藤陽次
・ 近藤陽次 (小惑星)
・ 近藤隆
・ 近藤隆信
・ 近藤隆則


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

近藤鎮三 : ミニ英和和英辞書
近藤鎮三[こんどう やすぞう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [み]
  1. (num) three 

近藤鎮三 : ウィキペディア日本語版
近藤鎮三[こんどう やすぞう]

近藤 鎮三(こんどう やすぞう / ちんぞう〔上村(2001)、4頁。〕、1849年5月28日嘉永2年4月7日) - 1894年明治27年)8月4日)は明治時代日本文部司法官僚検察官昌綱〔上村(2001)、3頁。〕。
== 来歴 ==
嘉永2年4月7日1849年5月28日)、旗本近藤庫三郎の長男として江戸本郷に生まれる〔。幕府洋学研究教育機関・開成所ドイツ語を学び、慶応元年(1865年)頃に開成所教授手伝並出役となったのち〔上村(2001)、4-5頁。〕、慶応3年(1867年)8月、幕府外国方通弁御用出役に転じた〔加藤英明 「徳川幕府外国方:近代的対外事務担当省の先駆 : その機構と人」(横山伊徳編 『幕末維新論集 7 幕末維新と外交』 吉川弘文館、2001年8月、ISBN 4642037276)42頁。宮地正人混沌の中の開成所 」(東京大学編 『学問の過去・現在・未来 第一部 学問のアルケオロジー』 東京大学〈東京大学コレクション〉、1997年12月、ISBN 4130202057)35頁。〕。幕府崩壊後は明治元年(1868年)10月に静岡学問所四等教授となって静岡藩に移住〔静岡県編 『静岡県史 資料編16 近現代一』 静岡県、1989年3月、173-175頁、181頁。樋口雄彦著 『静岡学問所』 静岡新聞社〈静新新書〉、2010年8月、ISBN 9784783803614、17頁、29頁、173頁。〕。
翌年7月、新政府が官制改革により大学校(同年12月に大学と改称)を設けると9月に大学校中得業生に任命され、以後、翌年2月に大学大得業生、11月に大学少助教、大学が廃され文部省が置かれた明治4年(1871年)7月に文部権大助教に進み、翌8月の官制改革で文部中助教となった〔上村(2001)、12-16頁。〕。同年10月、岩倉使節団理事官として欧米に派遣される文部大丞田中不二麿の随行を命じられ、11月に横浜を出港。米国に滞在したのち、翌年1月(1872年3月)に田中に先立ってベルリンに向かい、ドイツの学事調査を担当した〔小林哲也 「『理事功程』研究ノート」(『京都大学教育学部紀要』第20号、1974年3月、)84頁、86頁。〕。明治6年(1873年)2月には語学力を買われてベルリン公使館在勤の外務省二等書記官となったが、病のため明治7年(1874年)2月に帰国している〔上村(2001)、13頁、19頁。〕。
帰国後は3月に文部省八等出仕、翌明治8年(1875年)3月に文部省報告課雇となり、明治13年(1880年)5月には准奏任文部省御用掛となって報告局に勤務〔上村(2001)、13頁。『文部省職員録 明治十四年五月七日改 』 6頁。『文部省職員録 明治十七年二月二日改 』 8頁。〕。この間、ドイツ語教育文献の翻訳に従事した。明治8年11月に訳書『母親の心得』を出版しているほか、文部省刊行の『文部省雑誌』(のち『教育雑誌』、『文部省教育雑誌』と改題)には近藤の翻訳記事が多数掲載されている〔上村(2001)、19-21頁。小嶋。〕。また、明治14年(1883年)9月に独逸学協会が結成されると会員となった〔上村(2001)、21頁。〕。
明治17年(1884年)6月、司法少書記官に就任し、第一局(のち記録局)に勤務。さらに明治19年(1886年)1月まで文部省御用掛を兼ね、引き続き文部省報告局にも勤務した〔『官報』第292号、1884年6月20日、4頁 同誌第299号、1884年6月28日、5頁 同誌第315号、1884年7月17日、3頁 同誌第298号、1884年6月27日、2頁 同誌第751号、1886年1月6日、23頁 同誌第299号、1884年6月28日、5頁 。〕。明治19年2月、在官のまま自費でのドイツ留学を許されるとともに司法部内行政及裁判事務調査を命じられ、東京始審裁判所検事に転じた上で〔『官報』第801号、1886年3月8日、89頁 同誌第803号、1886年3月10日、113頁 。〕翌3月に横浜を出港。ベルリン大学ハイデルベルク大学ライプツィヒ大学に学び、明治23年(1890年)7月頃に帰国した〔上村(2001)、21-27頁。「明治一九年渡独した司法官たち」(鈴木正裕著 『近代民事訴訟法史・日本2』 有斐閣、2006年8月、ISBN 4641134693)。〕。その後、同年8月に大審院勤務となり、明治25年(1892年)12月には長野地方裁判所検事正となったが、病により翌年3月に退官〔『官報』第2138号、1890年8月14日、163頁 同誌第2848号、1892年12月23日、248頁 同誌第2916号、1893年3月23日、268頁 。上村(2001)、27頁。〕。以後療養に務めたものの、明治27年(1894年8月4日東京下谷区谷中三崎町の自邸で死去した。享年46。墓所は東京都台東区谷中の長明寺〔上村(2001)、27-28頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「近藤鎮三」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.