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近衛 経忠(このえ つねただ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。関白近衛家基の孫にして、関白近衛家平の子であり、弟に覚実がいる。従弟基嗣との家門争いに敗れ、南朝に仕えた。号に後猪熊関白、堀河関白など。 == 経歴 == 正和3年(1314年)11月に従三位、元亨4年(1324年)4月に23歳の若さで右大臣に昇り、元徳2年(1330年)1月には左大臣鷹司冬教を超えて関白と藤氏長者とを兼ねた。この異例の抜擢は経忠が後醍醐天皇から信任を受けていたことによるが、わずか7ヶ月で辞任に追い込まれ、代わりに内覧宣旨を受けた。その背景には、抗議の意味で自邸に籠った冬教に対する配慮に加えて、後醍醐天皇は関白とは別に2名の内覧を設置してこれを補佐させる意図があり、九条房実・鷹司冬平の死去によって内覧が前関白二条道平のみとなったために、経忠・冬教を相次いで関白に任じることで、関白を含めた内覧3人制の維持を図ったとされている〔なお、関白廃止が宣言された建武政権でも二条道平の急逝まで、近衛経忠・二条道平・鷹司冬教の内覧3人制が採られている。(木藤才蔵 『二条良基の研究』 桜楓社、1987年、P20-22・29-30 ISBN 9784273021771)〕。 もともと経忠の祖父・家基には二人の子がおり、一人は鷹司家出身の妾が生んだ長男の家平(経忠の父)で、もう一人は亀山天皇の皇女が生んだ次男経平であった。家基の没後、二人はどちらが近衛家の嫡流かを巡って対立し、その争いはそれぞれの息子の代に受け継がれ、経忠は経平の子・基嗣と激しく争っていた〔『海蔵和尚紀年録』によれば、経忠は後醍醐天皇に基嗣のことを讒奏して、その排斥を図ったため、基嗣は虎関師錬に救助を求め、その尽力によって北朝で栄達したという。経忠が吉野出奔に至ったのは、このような近衛家内における相続争いにも原因があったと考えられる(村田正志 『南北朝史論』 中央公論社、1971年)。〕。特に基嗣は後醍醐天皇の皇女を妻にしており、強力な対立相手のはずであった。だが、経忠は建武政権下において再び天皇から重用され、建武元年(1334年)2月右大臣・藤氏長者に復し、同2年(1335年)11月左大臣へと昇進する。延元元年(1336年)8月足利尊氏の入京に伴って持明院統の光明天皇が擁立された際には、再び関白宣下を受けた。しかし、後醍醐が京都を脱して吉野に潜幸すると、天皇への旧恩から吉野朝廷(南朝)への参仕を決意。職を辞するも、当然認められなかった。 ついに延元2年(1337年)4月、京都を出奔して南朝へ赴いた。これに激怒した北朝側は経忠の関白職を解いて基嗣をその後任とし、子の経家・冬実は昇進停止となった。南朝では左大臣の任にあったものの〔一般には経忠が南朝においても関白に任じられたように考えられているが、これは『桜雲記』『南方紀伝』『南朝公卿補任』といった近世の俗書に基づく説であり、根本史料には確認できない。南朝は後醍醐が標榜した「天皇親政」の政治理念を引き継いでいたため、当初は建武政権と同様に摂関を置かなかったとみられる。〕、志を得なかったのか、興国2年(1341年)京都に戻っている。しかし、ここにおいても冷遇されたらしく、亡屋1宇・所領2ヶ所を受領した他は正体なき有様であったため、藤氏長者の立場を利用し、関東の小山氏・小田氏に呼びかけて藤氏一揆(藤原氏同盟)を企て、自ら天下の権を執らんとしたという。この一件については、経忠が北朝との和睦工作を進めるに当たって、障害となる主戦派の北畠親房を排除する動きとの見方がある。 一揆の計画が頓挫した後も京都に留まったと思われ、正平一統の折には家門を安堵されて、近衛第に入っている。しかし、間もなく一統が破綻すると追放され、南朝の行宮がある賀名生(奈良県五條市)に赴いたのであろう。正平7年(1352年)8月12日に出家、翌日水腫のために薨去した。享年51。 勅撰和歌集には計3首が入集しているが、その内訳は、『続後拾遺和歌集』・『新拾遺和歌集』・『新続古今和歌集』に各1首である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「近衛経忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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