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近衛 秀健(このえ ひでたけ、1931年2月4日 - 2003年3月31日〔近衛秀健氏死去 宮内庁式部職楽部指揮者 〕)は、日本の作曲家、指揮者。 == 経歴 == 近衛秀麿の次男(非嫡出子)として、母坪井文子の実家がある兵庫県神戸市に生まれ〔大野芳『近衛秀麿』p.213〕、1935年10月20日に秀麿から認知される〔大野芳『近衛秀麿』p.247〕。父の末弟の水谷川忠麿男爵の養子となるも、1939年2月25日に水谷川家の籍を離れて男爵常磐井堯猷(近衛忠房の三男)の家に預けられ、最終的に近衛家へ戻った〔大野芳『近衛秀麿』p.250〕。 1936年、学習院初等科に入学するも、戦争による疎開で学校を転々と移る。敗戦後、東京に戻り、学習院中等科に復学した。1947年、東宝交響楽団(現・東京交響楽団)に入団する。打楽器と団の編曲を担当した。 1959年に渡欧し、西ドイツのマンハイム市立音楽院に入学、作曲と指揮を専攻した。1962年、イタリアのキジ音楽院に入学し、指揮・作曲・映画音楽を専攻する。1965年、日本に帰国し1967年から1972年まで財団法人近衛音楽研究所理事、1972年から近衛音楽研究所理事長を務めた。 のちに宮内庁式部職技術指導員、獨協大学講師、高崎芸術短期大学講師などを歴任した。1993年6月9日の皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀では、パレード出発時に宮内庁楽部の演奏を指揮した。 2003年に急性大動脈乖離で没〔。 長男の近衛一はバスーン奏者で、近衛音楽研究所理事長を務めている。実弟の水谷川忠俊は作曲家で姪の水谷川陽子はヴァイオリニスト、同じく水谷川優子はチェリストという音楽一家であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「近衛秀健」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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