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近衞篤麿 ( リダイレクト:近衛篤麿 ) : ウィキペディア日本語版 | 近衛篤麿[このえ あつまろ]
近衞 篤麿(このえ あつまろ、1863年8月10日(文久3年6月26日) - 1904年(明治37年)1月1日)は、明治時代後期の華族・政治家。号は霞山。近衛家は五摂家筆頭の家柄で、公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長。本姓は藤原。 == 経歴 ==
=== 生い立ち === 1863年(文久3年)旧暦6月26日、左大臣・近衛忠房と島津斉彬娘(実は養女)・貞姫の長男として京都に生まれた〔但し、島津家側の資料では「光蘭夫人(=貞姫) 篤麿''養母''」と書かれており、疑問もある。参考文献『日本の肖像』8巻「鹿児島・島津家」毎日新聞社編〕。ただし父忠房が1873年(明治6年)に家督を継がないまま35歳の若さで病没したために、祖父近衛忠煕の養子という形で家督を相続した(文献によって、忠煕六男と記しているものもある)。1879年(明治12年)大学予備門に入学したが、病を得て退学を余儀なくされた。以後は、和漢に加え、英語を独学する。1884年(明治16年)、華族令の制定に伴い公爵に叙せられる。1885年(明治18年)にドイツ・フランスの両国に相次いで渡り、ボン大学・ライプツィヒ大学に学んだ。1890年(明治23年)に帰国し貴族院議員となる。1895年(明治28年)には学習院院長となり、華族の子弟の教育に力を注いだ。
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Konoe Atsumaro 」があります。
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