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近鉄藤井寺球場 : ミニ英和和英辞書
近鉄藤井寺球場[きんてつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

近鉄 : [きんてつ]
 【名詞】 1. (abbr) Kinki Nippon Tetsudou (railway co.) 
: [てつ]
 【名詞】 1. iron 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [い]
 【名詞】 1. well 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [たま, きゅう]
 【名詞】 1. globe 2. sphere 3. ball
球場 : [きゅうじょう]
 【名詞】 1. baseball stadium 
: [ば]
 【名詞】 1. place 2. field (physics) 

近鉄藤井寺球場 ( リダイレクト:藤井寺球場 ) : ウィキペディア日本語版
藤井寺球場[ふじいでらきゅうじょう]

藤井寺球場(ふじいでらきゅうじょう)は、かつて大阪府藤井寺市にあった野球場で、正式名称は「近鉄藤井寺球場」。近畿日本鉄道(近鉄)の関連会社である近鉄興業が保有および管理していたが、2005年1月末をもって閉鎖され、2006年8月に解体された。
== 歴史 ==
1925年大阪鉄道(略称:大鉄、現:近畿日本鉄道)は造園学者の大屋霊城に依頼し、郊外の沿線である藤井寺に住宅地や自然体験学習のための花卉園や果樹園を備えた「藤井寺教材園」、相撲場などのスポーツ施設を備えた「藤井寺経営地」の計画を立案。1923年阪神電気鉄道が建設した阪神甲子園球場が全国中等学校野球大会の舞台として人気を博していたことから、この経営地に野球場を建設することとした。合資会社錢高組が施工し、1927年11月11日着工、1928年5月25日に完成した。当時の敷地面積は甲子園球場をしのぐ59,000m²。総工費は70万円。大鉄傘が備えられた内野席と、芝生の外野席を合わせた収容人員は7万人とされた。
5月27日海軍記念日に併せて開場式が行われ、飾磨(兵庫)対教業(京都)という尋常学校の試合を皮切りに、計4試合が記念試合として行われた
〔永井良和・橋爪紳也 『南海ホークスがあったころ』 紀伊國屋書店、2003年、22頁。ISBN 4-314-00947-0〕。
その後、戦前の間は主にアマチュア野球に使用された。戦時中には1943年7月2日から解体工事が行われて大鉄傘は供出となり、球場は若人の錬成道場となった。
1949年の2リーグ分裂時に近鉄は新球団を結成し、翌年のリーグ開幕に向けて約8000万円をかけてスタンドやグラウンドを改修。1950年から近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)の本拠地となった。以降、パールス時代の近鉄の広告では本球場を「パールススタジアム」と称したものもあった。
しかし、照明設備がない本球場ではナイターを開催することができなかったため、近鉄は平日の公式戦をもっぱら大阪球場(1950年~1957年)と日本生命球場1958年1983年 以下、日生球場)で開催。本球場は野球協約に定める専用球場(=本拠地)であったが、長年にわたって一軍の週末や祝日のデーゲームや二軍の試合に使用される名目上の本拠地であった。
近鉄が主に使用した日生球場は大阪市内にあって交通の便が良く、観客動員も見込むことができた。また、グラウンドと客席の距離が近いためファンの根強い人気もあった。しかし、社会人野球チームを持つ日本生命保険から賃借していた球場だったために収容人員が少なく(約20,500人)、グラウンドも狭い上、照明が他球場に比べて暗いなどプロ野球興行に適しているとはいえなかった。このため日本野球機構パ・リーグが一時的に問題視し、愛知県三重県などの近鉄沿線の中京地区への移転も検討されたが、愛知県を保護地域とする中日ドラゴンズの独占権益侵害やファン分散につながる恐れから断念せざるを得なかった。
しかし、近鉄にとって最も大きな問題は本球場も日生球場も日本シリーズオールスターゲームの開催条件とされている「照明設備のある収容人数3万人以上の球場」という条件を満たしていないことであった。実際、近鉄が初めてリーグ優勝した1979年と連覇した1980年の日本シリーズは、当時南海ホークスの専用球場だった大阪球場を借りて開催した(対戦相手は両年とも広島東洋カープ)〔但し、1975年のプレーオフは本球場で行われ、もし近鉄が日本シリーズに進出した場合も本球場で開催予定だった。なお、1979年と1980年はプレーオフも大阪球場で開催した。また、近鉄にオールスターの主管が回った時も大阪球場で開催した。この場合、主管は南海に譲渡している。〕。そのため、本球場でナイターを行うことは近鉄の長年の願いだった。
それまで万年最下位だったチームが1969年1972年にAクラスを維持した後の1973年2月、近鉄は球場の大規模な改修工事計画を発表した。その内容は土盛りだった外野席にスタンドを建設し、スコアボードを改修するなど本拠地にふさわしい球場とするものだったが、この計画の中にナイター設備の設置工事が含まれていた。だが、これに対して球場周辺の住民が工事を行うと観客の自動車乗り入れや応援による騒音などナイター公害が発生すると反発し、反対運動を起こした。同年7月に近鉄は工事に着工したが、反対住民は10月に大阪地方裁判所に工事差し止めの仮処分を申請し地裁がこれを認めたため、外野席スタンドの建設やスコアボードなどの改修工事は完了したものの、ナイター設備は外野の鉄塔部分が完成したところで中断され、そのまま約10年間工事が中断した。
その間、近鉄と反対住民は仲介や調停などを重ねたがいずれも不調に終わったため、1981年3月に近鉄は大阪地方裁判所に工事差し止めへの異議申し立てを行った。地裁は1983年9月26日、外野スタンド最上段に防音壁を設置すること(3塁側からの写真のライト後方部分にあるのがそれ)や鳴り物入りの応援を禁止することなどを条件としてナイター設備の設置を認めたため、近鉄は同年11月21日に工事を再開。1984年4月6日にナイター設備が完成し、名実ともに本拠地となった。翌1985年には約9億円をかけて球場施設のリニューアルを実施。外野グラウンドを人工芝にしたほか、スタンドの一部改修などが行われ「バファローズ・スタジアム」の愛称が付けられた(1996年には内野にも人工芝を敷設)。この年の夏には初のオールスターゲームも開催された。
1984年の鈴木啓示投手の300勝達成や1989年のリーグ優勝など名勝負を繰り広げたが、1997年大阪ドーム(現:京セラドーム大阪)が完成したのに伴い再び準本拠地に降格。練習場及び二軍の本拠地球場となり、その後も一軍公式戦が年間で数試合行われたが、1999年10月7日の近鉄対千葉ロッテマリーンズ戦(最終戦)が最後の一軍公式戦となった(この試合では当時セットアッパーで、前年に脳腫瘍の手術をした盛田幸妃が復活登板した)。専用球場としての指定も同年で取り消され、晩年は二軍の試合や高校野球の大阪大会などが主となった。
2004年、近鉄はプロ野球再編問題の当事者となり、同年8月には翌年の春を目途に本球場の閉鎖を検討していることを明らかにした。近鉄は近年にも練習場及び二軍本拠地の機能を泉佐野市りんくうタウンに移転する構想を発表するなど本球場周辺の再開発に対して強い関心を持っていた。
そして、近鉄とオリックス・ブルーウェーブの合併により野球場を持つ必要性が薄れたこと(オリックスの二軍本拠地及び合宿所は兵庫県神戸市にあるものを継続使用するため)や施設が著しく老朽化していることなどを理由に、2005年1月末を以て近鉄が主催する閉鎖イベント等が行われないまま本球場は閉鎖となった。
日本プロ野球選手会によるストライキが行われた2004年9月には、外野スタンドで近鉄の主力選手〔アキレス腱断裂でリハビリをしていた吉岡雄二を含め、礒部公一や外国人を除く。〕によるサイン会が実施された。
本球場での最後のプロ野球の試合は2004年9月30日ウエスタン・リーグ優勝決定戦の近鉄対中日戦であった。この試合は前期に近鉄が優勝したために球場最後の試合となったもので、当初から予定されていた試合ではなかった。また、プロ野球選手会によるストライキによって日程が延期され、一軍公式戦終了後のこの日に開催されたため、近鉄としては最後の公式試合となった。試合は中日に敗れたため、宮崎でのファーム日本選手権への出場はならなかったが、球場には球団と球場に別れを惜しむファン約5000人がつめかけた。
近鉄としての最後の使用は2004年11月6日の秋季練習で、プロ野球での最後の使用は同年11月13日からの東北楽天ゴールデンイーグルスの球団としての初練習であった。これは配下選手が関西に住む元近鉄と元オリックスの選手が中心だったためで、当時ユニフォームのデザインはまだ決まっておらず、真っ白の仮ユニフォームを着ての練習は「まるで高校野球みたいだ」と評された。
なお、2005年6月4日翌5日に藤井寺市や市民らの主催によって本球場で「藤井寺市民フェスタ」が開催され、鈴木啓示らOB選手の講演や運動会などを行った。7万1千人の参加者を集め、これが実質的な閉鎖イベントとなった。
2006年2月から8月にかけて解体工事が行われ、約77年余りの球場の歴史を終えた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤井寺球場」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fujiidera Stadium 」があります。




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