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迪慶州 ( リダイレクト:デチェン・チベット族自治州 ) : ウィキペディア日本語版 | デチェン・チベット族自治州[でちぇん]
デチェン(迪慶)チベット族自治州(てきけいチベットぞくじちしゅう、, デチェン・プーリー・ランキョン・クル)は中華人民共和国雲南省西北部に位置するチベット族自治州でありチベット族が人口の33%を占めている。チベットの伝統的な地域区分ではカム地方南部に位置する。 迪慶(てきけい)はチベット語のデチェンを音写したもので、「デ(bde)」は「安楽」を意味する名詞、「チェン(chen)」は「大いなる」を意味する形容詞で、合わせて「大いなる安楽」を意味する。 == 歴史 == 唐代に吐蕃がこの一帯に神川都督を設置し南詔との連携を図った。その後吐蕃が衰退すると大理国の支配下に入り、大理国がモンゴル帝国のクビライに降伏するのに伴い、梁王国に組み込まれた。その梁王国が1390年に滅亡すると、麗江を本拠地とするジャン王国の支配下に入った。17世紀半ば、ジャン王国はグシ・ハン王朝に征服され、デチェン地方からリタン、バタンなどまで広がっていたカム地方南部の広大な領土をすべて奪われた。 清国が1724年の雍正のチベット分割に際し、グシ・ハン一族がチベットの諸侯に対して有していた支配権を接収した際、ジャン王国はデチェン地方をはじめとするカム地方南部に対する支配権の回復を求めたが、清国はこれを拒否、デチェン地方の諸侯については、四川と雲南のいずれに帰属するか議論が行われたのち、1726年、雲南省を介して土司の称号を受けることとなった。現在の領域を枠組みとするデチェン州という行政単位が成立したのは、この時である。 辛亥革命により清が滅亡すると、チベット政府ガンデンポタンはラサを占拠していた清国軍の残党を市街戦で退けて独立を宣言するとともに、チベット全土の統合を目指して、アムド、カムへと出兵した。1913年、雲南軍を率いた雲南省の都督蔡鄂(さいがく)は、デチェン地方を経由してカム地方に侵攻し、チベット軍の迎撃にあたった。チベット軍はディチュ河以西に押し返され、デチェン地方は雲南省の支配下にとどまった。1936年には中国紅軍が長征の途中、この地区を通過している。1950年人民解放軍が進駐し、1957年デチェン州が成立し、麗江地区に所属したが、1973年に雲南省直轄の自治州となった。
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