翻訳と辞書
Words near each other
・ 迫田太次右衛門
・ 迫田太次右衞門
・ 迫田孝也
・ 迫田彥七
・ 迫田彦七
・ 迫田悠
・ 迫田朋子
・ 迫田江理
・ 迫田穆成
・ 迫町
迫畑正巳
・ 迫留駿
・ 迫真
・ 迫石
・ 迫稔雄
・ 迫間
・ 迫間不動
・ 迫間小学校
・ 迫間村
・ 迫間村 (岐阜県)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

迫畑正巳 : ミニ英和和英辞書
迫畑正巳[み]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はたけ]
 【名詞】 1. field 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [み]
 【名詞】 1. sixth sign of Chinese zodiac (The Serpent, 9a.m.-11a.m., south-southeast, April) 

迫畑正巳 : ウィキペディア日本語版
迫畑正巳[み]

迫畑 正巳(さこはた まさみ、1912年 - 1975年1月31日)は、日本の野球指導者(プロ野球監督)。山口県出身。
== 来歴 ==
下関商業を経て明治大学へ進学し、捕手として東京六大学リーグで活躍した。1956年大洋ホエールズの監督に就任。前々年に96敗、前年に99敗した弱体チームに自らの出身校である明治大学から秋山登土井淳岩岡保宏黒木弘重沖山光利の「明大五人衆」を入団させたがこの年も最下位に終わり、1957年1958年も最下位に沈み結局3年連続で最下位(チームは5年連続最下位)となりこの年で辞任した。
のちに日立製作所硬式野球部の監督を務め、1975年1月31日に死去した。
成績こそ3年連続最下位に終わったが、「明大五人衆」や同じ明治大学出身の近藤和彦、あるいは鈴木隆島田源太郎を使い続けるなど1960年の大洋日本一の礎を築いた。1957年7月7日の対読売ジャイアンツ戦(第1試合)で権藤正利が、自己の連敗を28でストップする勝利を挙げた際は『自分のことのように嬉しい』と喜ぶなど人格も優れていたが、勝負師としては人が好すぎたと当時の新聞には記されていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「迫畑正巳」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.