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追浜ワークス(おっぱまワークス)とは、1960年代 - 1970年代の日産自動車のワークス・チームのうち、神奈川県横須賀市の追浜工場内にある日産の総合研究所配下のチーム、また同チームと契約を結んでいたドライバー達のことを指す。 == 概要 == 1963年に日産社内に実験部第3実験課が創設されたのを「追浜ワークス」の実質的な起源とするのがメディアでは一般的である〔『Racing On』(ニューズ出版)2009年1月号・pp.14 - 15〕。初代課長(実質的な監督)には、1958年にオーストラリア・モービルガス・トライアルでダットサン1000乗用車がクラス優勝を飾った際のドライバーである難波靖治が就任した。 1966年に日産がプリンス自動車と合併したために組織改編が行われ、旧日産側のチームは「特殊車両部第1実験課」と名称を改めラリー活動に専念することになり、サーキットレース用の車両については旧プリンス側チームが母体の「特殊車両部第2実験課」が担当することになった。旧プリンス側の部隊については、本拠地は追浜ではなく旧プリンスの村山工場内に置かれていたが、当時メディアではこれら特殊車両部全体を指して「追浜ワークス」と称する場合が多かった〔。 第2実験課は日本グランプリ参戦用マシンとして、R380 - R383といったプロトタイプレーシングカーの開発を担当〔R380シリーズなどの開発前は、ツーリングカーやGTカーも開発していた。〕。一方で第1実験課はサファリラリー等の国際ラリーに出場するマシンの開発を担当していた。 プロトタイプカーを開発する追浜ワークスは「一軍」とみなされ、ツーリングカーやGTカー(市販車の改造マシン)でレースを行う二軍的チームとして大森ワークス(日産宣伝部が管轄)が存在した。 1970年、「排ガス対策の開発に集中する」という理由から日産が日本グランプリへの参加を取りやめたため、第2実験課はプロトタイプカー開発を中止し、ツーリングカーの開発にシフト。追浜ワークスがツーリングカー開発に参入(再参入)したため、それ以降の両ワークスは同じ日産直属の組織でありながら、ライバル関係が激化する。両ワークスの切磋琢磨の結果、スカイライン2000GT-RやフェアレディZといった車種がレースで圧倒的な強さを発揮するが、1974年にオイルショックの影響から日産がツーリングカーレースへの参戦も取りやめると、第2実験課は実質的な活動を停止した。 1970年代後半には、自動車排出ガス規制への注力により日産社内のモータースポーツ関連の予算が大幅に削減されたため、村山の第2実験課が解散し、追浜の第1実験課に機能が統合された。しかし第1実験課によるラリー活動は続けられ、1979年から1982年にかけてサファリラリーで総合4連覇を達成している。またこの時期、日産としては珍しくフォーミュラカー分野への参戦(フォーミュラ・パシフィックへのエンジン供給)も行われている。 1980年代に入ると景気が回復したため、追浜もスカイラインターボCに代表されるシルエットフォーミュラの開発など、サーキットレース用の車両開発を徐々に再開。しかし1984年に大森ワークスをベースにNISMOが設立され、日産のモータースポーツ活動を全てNISMOに集約することとなったことから、追浜ワークスは消滅した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「追浜ワークス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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