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通勤五方面計画 : ミニ英和和英辞書
通勤五方面計画[つうきん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つう]
  1. (adj-na,n) (1) connoisseur 2. authority 3. (2) counter for letters, notes, documents, etc. 
通勤 : [つうきん]
  1. (n,vs) commuting to work 
: [ごん]
 【名詞】 1. be fit for 2. be equal to 3. serve
: [ご]
  1. (num) five 
: [ほう]
  1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way 
方面 : [ほうめん]
 【名詞】 1. direction 2. district 3. field (e.g., of study) 
: [めん]
  1. (n,n-suf) face 2. mug 3. surface 4. facial features 5. mask 6. face guard 7. side or facet 8. corner 9. page 
: [けい]
  1. (n,n-suf) plan 
計画 : [けいかく]
  1. (n,vs) plan 2. project 3. schedule 4. scheme 5. program 6. programme 
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 

通勤五方面計画 ( リダイレクト:通勤五方面作戦 ) : ウィキペディア日本語版
通勤五方面作戦[つうきんごほうめんさくせん]
通勤五方面作戦(つうきんごほうめんさくせん)とは、首都圏における日本国有鉄道(国鉄)の通勤路線(国電)における輸送量増強を目指し、1964年(昭和39年)6月に国鉄の第322回常務会でその大綱が承認されたプロジェクトの総称である。略称は「五方面作戦」。「東京五方面作戦」ともいわれる。
== 五方面作戦の背景と計画 ==
第二次世界大戦後の高度経済成長都市部の過密化により、東京近郊路線の通勤時間帯における混雑は「通勤地獄」と称されるほど深刻なものになっていた。一例として、定員に対する乗車人員数で表される混雑率1960年(昭和35年)度に下記のようになっていた。
*総武本線:312%
*東北本線:307%
*中央線快速:279%
*常磐線:247%
それまでも国鉄は72系に代表される旧形国電客車列車を新性能電車101系113系など)に置き換え、列車本数を増やすことで混雑緩和を図っていた。しかし、輸送量の増加に見合うものではなく、混雑を解消するには線増を伴う抜本的な輸送力強化が必須とされ、1960年代に入ると毎年のように監査報告書でも指摘されていた。
国鉄の路線図を見ると、東京都心への輸送は南西から時計回りに東海道本線横須賀線中央本線高崎線東北本線常磐線総武本線が担っていることが分かる。これら5方向へ放射状に伸びる路線を複々線化するなどして抜本的な輸送力増強策を計画・実行したことが「通勤五方面作戦」と呼ばれる所以である。
また運転業務面においても、増発に次ぐ増発を行っても当時の輸送人員はそれ以上に増加していたため、このプロジェクトの早期完成によって混雑緩和ならびに列車増発が可能になるため、運転担当者も早期の完成を強く国鉄当局に要請した。決め手となったのは三河島事故および鶴見事故であり、いずれも過密ダイヤが被害を大きくしたことが問題視された。このため、鶴見事故直後の1963年11月には安全策として線路増設を促進する旨の意思表明が総裁から出されている〔「線路増設を促進 国鉄の安全策 石田総裁談」『読売新聞』1963年11月16日朝刊1面
翌年策定し1965年度より実施した第三次長期計画の総予算が2兆9700億円である事実はよく文献にも載っていることだが、この記事の時点で3兆円という単語が出ている。なお、第二次五ヵ年計画3年目の秋を迎えていたが、目標に対して40%程度しか実現できていなかった。このため、第二次五ヵ年計画は4ヵ年で打ち切られた。〕。
五方面作戦は1965年度から1971年度末までで計画された第三次長期計画で重点投資対象であった通勤投資の中核をなしている。しかし、1965年当時の混雑率予想では5路線の線増を実施しても集中を続ける人口の前には、混雑率を当時の状況よりやや抑える程度の効果しか持っていないと考えられた。

このように、需要追従型となった背景は、十河信二国鉄総裁時代以前、第二次五ヵ年計画までの、通勤投資への消極姿勢があり、国鉄として首都圏への人口集中への対応が遅れたからである。十河の跡を継いだ石田礼助は五方面作戦の計画を指示した総裁ではあるが、十河時代には国鉄監査委員を務めており、下記のように通勤投資には消極的であった。

石田は通勤投資を語る際「降りかかる火の粉は払わねばならぬ」と例えたが、国鉄旅客局の芝逸朗によれば、その言葉こそが、開発先行型ではない、需要追従の思想を体現したものだった。五方面作戦においても話は同様であった。なお、第三次長期計画で目標とされた首都圏通勤路線全体の平均混雑率は240%である。また、当初は第三次長期計画の最終年である1971年度末までに5路線とも一定の区間の線路増設を終えるように計画された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「通勤五方面作戦」の詳細全文を読む




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