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逢坂 元吉郎(おうさか もときちろう、1880年6月25日 - 1945年6月10日)は、日本の牧師、神学者である。既存の教会に限界を感じ、民衆教会を提唱した。 ==経歴== 石川県江沼郡大聖寺町字番場町(現加賀市)に、平塚鎌吉・きしの5男として生まれた。後に、逢坂家の養子になる。石川県尋常中学校および第四高等学校に在学中に、西田幾多郎の感化を受けて、1903年より東京帝国大学政治科に入学した。上京後、1904年植村正久から洗礼を受けた。一時的に、植村が創立した東京神学社にも籍を置いた。 東京帝国大学を中退し、1908年に渡米してニューヨークのオーバン大学に入学して神学を学ぶ。さらに、1911年イギリスに渡りニューカレッジで学ぶ。1912年帰国する。 1913年に日本基督教会の教師になり、高輪教会の牧師に就任する。しかし、1917年に高輪教会より分離脱退し、大崎教会を創立する。 1919年(大正8年)11月には会堂を献堂する。民衆教会を提唱し、1922年に民衆教会研究会の「メシア会」を主宰する。 1917年(大正6年)に創刊した『信仰の友』をメシア会の機関紙とした。 四高の知り合いの正力松太郎の依頼により、1925年(大正14年)より、『読売新聞』の宗教欄にも寄稿する。1929年(昭和4年)に宗教団体法案の成立阻止や、神社問題に対して論陣を張った。 1934年(昭和9年)神宮奉斎会を批判したために暴漢に襲われ重傷を負い、1年半入院する。回復すると初代教父の研究や宗教改革者の聖餐論を研究する。茨城県鹿島町に修祷庵を設立し、修道的な生活に励んだ。1945年(昭和20年)太平洋戦争終戦直前に死去する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「逢坂元吉郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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