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逢 紀(ほう き、? - 202年)は、中国後漢末期の政治家、武将。字は元図。荊州南陽郡の人。〔及南陽許攸、逢紀、穎川荀諶皆爲謀主。- 《資治通鑑》 卷60〕 == 正史の事跡 == === 初期の事跡 === 聡明で計略に長じていた。何進に仕えていた頃から袁紹とは親しく、後に許攸とともにその旗揚げを助け参謀として仕えた。 『英雄記』によれば、逢紀は袁紹に「公孫瓚に韓馥を攻めさせて、韓馥が臆病になったところを、使者を派遣して利害損得を説明させれば、韓馥は冀州を(袁紹に)譲るでしょう。」と語った。袁紹が、この提案に従ったところ、公孫瓚は韓馥を攻撃した。 初平2年(191年)、逢紀の思惑通り、袁紹は韓馥から冀州を譲り受け、河北袁紹政権の基礎を築いた。後に、逢紀は審配と共に袁紹軍の軍務を総理した。 最古参の臣下であることや、政権の基礎を築くなど袁紹の危機を救ったため、参謀の中でも最も重用されたが、同僚であった審配・田豊とは仲が悪く、常に対立していた。特に後者との不仲は深刻で、建安5年(200年)の官渡の戦いのときに、袁紹が田豊の進言を用いなかったのは、逢紀の讒言を信じていたためと言われている。しかも敗戦後には、袁紹に讒言して田豊を処刑させたとされる〔『三国志』魏書袁紹伝本伝は、田豊の処刑は袁紹自身の猜疑心が原因としている。〕。 その一方で官渡の戦いの後に、讒言により窮地に陥った審配を「私情と国事は別問題である」として、懸命に弁護した。そのため、審配との関係は一時改善されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「逢紀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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