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(n) combined fleet =========================== ・ 連 : [むらじ, れん] 【名詞】 1. party 2. company 3. group ・ 連合 : [れんごう] 1. (n,vs) union 2. alliance ・ 連合艦隊 : [れんごうかんたい] (n) combined fleet ・ 合 : [ごう] 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) ・ 艦 : [かん] 1. (n,n-suf) warship ・ 艦隊 : [かんたい] 【名詞】 1. (naval) fleet 2. armada ・ 隊 : [たい] 【名詞】 1. party 2. company 3. body (of troops) 4. corps
連合艦隊(れんごうかんたい、旧字表記聯合艦隊)は、旧日本海軍が二個以上の常設の艦隊で編成した、非常設の艦隊である。日本海軍が使用した略称は( または から)、本来の英語による連合艦隊はとなるため、帝国海軍の思考に則った和製英語を略称にしている。 == 概要 == 連合艦隊は2個以上の艦隊で編成された日本海軍の中核部隊である。明治初期、海軍はそれまで有力艦・新鋭艦で編成された主力部隊を「常備艦隊」、老巧艦などで編成された沿岸防備のための二線級部隊を「警備艦隊」と称していた。しかし、日清戦争開戦がせまってくるにつれ「警備艦隊」というのは戦時にふさわしくないという意見がでてきた。一時は「警備艦隊」を「常備艦隊」に統合する案が出たが、当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が「警備艦隊」を「西海艦隊」と改名し、「常備艦隊」と「西海艦隊」をもって「連合艦隊」を組織するという案を出した。これが連合艦隊編成のきっかけとなり、日清戦争開戦の6日後にはじめて連合艦隊が編成された。以降日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降常設となった。 連合艦隊は天皇に直属する連合艦隊司令長官がこれを統括し、軍令に関しては軍令部総長の、軍政に関しては海軍大臣の指示を受ける。昭和19年(1944年)のレイテ沖海戦で事実上壊滅した。 連合艦隊司令部には、司令長官を補佐する幕僚として、参謀長、参謀副長(昭和19年〜)、首席参謀(先任参謀と通称)、砲術参謀、水雷参謀、航空参謀、通信参謀、航海参謀、機関参謀、戦務参謀、政務参謀、主計長、軍医長、機関長、暗号長、気象長、副官等が配置されていた。ただし、首席参謀以外の○○参謀は通称である。 日本海軍といえば、長い間、連合艦隊が代表であり、戦艦など主力艦はいうに及ばず、駆逐艦、輸送艦のような補助艦まで、大多数が連合艦隊に取り込まれた。また、連合艦隊こそが実戦部隊のエリートであり、そこに有能な人材を集中し、局地警備部隊や海上護衛隊の人材育成を軽視した。補給軽視は、日本陸軍と同じである。また、列強に対抗するには国力が足りない為、艦隊決戦を志向した日本海軍の戦略もあり、本来、海軍の重要任務になるべき海上交通、シーレーンの確保に充当すべき艦艇と人材に不足を来たしてしまった。日本海軍は、戦艦中心の砲雷撃戦を主体にした艦隊決戦の思想を残しながらも、空母機動部隊を編成し、斬新な艦隊運用のさきがけとなった。海軍航空隊の育成も、戦艦による艦隊決戦、次いで空母艦隊決戦を目標としていた。空母艦隊決戦の思想は1944年6月のマリアナ沖海戦の敗北により放棄されたが、1944年10月のレイテ沖海戦まで、連合艦隊中心主義の艦隊編成・運用をおこなった。連合艦隊中心主義の結果、海上護衛部隊、対潜哨戒部隊(ハンターキラー)の編成に後れをとった。 1945年4月の戦艦大和以下第二艦隊の沖縄への海上特攻は、第二艦隊を解散するという決断ができないままに、レイテ沖海戦と同じく、航空部隊の援護なしの無謀な突入作戦の繰り返しであった。沖縄戦に敗北すると、生き残った戦艦「長門」のような大型艦艇は、事実上、局地警備隊の海岸砲台として使用された。そして、特攻兵器「回天」「海龍」「震洋」などを配備した特攻隊が海軍の主力艦艇となっていた。戦争末期の連合艦隊は、事実上解散していたのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「連合艦隊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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