|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 連 : [むらじ, れん] 【名詞】 1. party 2. company 3. group ・ 連続 : [れんぞく] 1. (n,vs) serial 2. consecutive 3. continuity 4. occurring in succession 5. continuing ・ 射殺 : [しゃさつ] 1. (n,vs) shooting to death ・ 殺 : [さつ] 【名詞】 1. kill 2. murder 3. butcher 4. slice off 5. split 6. diminish 7. reduce 8. spoil ・ 魔 : [ま] 【名詞】 1. demon 2. devil 3. evil spirit evil influence
琴桃川凛(ことがわ りん、1959年 - )は、日本のロックミュージシャン。ロックバンド・連続射殺魔のリーダー。本名は和田哲郎で、連続射殺魔時代は本名で活動していた。 == 来歴 == 1975年、都内の高校生だった和田哲郎(ヴォーカル、ギター)は、後にじゃがたらに参加する同じ高校の川辺徳行(ドラムス)らと共に「連続射殺魔」を結成。 1976年、後にガセネタや灰野敬二の不失者に参加する浜野純(ベース、ガセネタではギター)、後に劇団「キラキラ社」で演出・脚本を担当する山本哲らをメンバーに加え、カセットテープ「SHARL」を制作。 1977年、「ロック・マガジン」編集長の阿木譲の誘いで、京都へ移住。関西と関東を行き来しながらライブを行った。なお、この頃の渋谷屋根裏の音源が後にCDとしてリリースされている。 1980年、1st.シングル「愛して欲しい」を自らのレーベルHIP RECORDから発表。しかし、「連続射殺魔」はメンバーチェンジを繰り返し活動を休止。和田は、別のバンド「サティ&レボリューション」を結成し1年ほど活動。 1981年、東京に戻り、山本哲の誘いで劇団「キラキラ社」の音楽を担当。なお、「キラキラ社」にはラッパーになる以前のECDも所属していた。 1982年、再び「連続射殺魔」名義で2nd.シングル「Oh!CHILD」を発表。また、徳間ジャパンからリリースされた、当時インディーズ・シーンで活躍していたバンドを集めたオムニバス・アルバム「REBEL STREET」に町田町蔵との共作「ボリス・ヴィアンの憤り」で参加。 1983年から、じゃがたらのスタジオやライブでミキサーとして活躍。その交流から、じゃがたらの渡邊正己をゲスト・ヴォーカルに迎え、12インチEP「Pimp Model」を発表。じゃがたらの8インチEP「家族百景」、そして山口冨士夫の8インチEP「RIDE ON!」にギターなどで参加。 1984年から1985年にかけて、「SHARL」、「Mu & Rock'n'Roll Music」として活動し、立て続けにソノシートをリリースする。また、1976年に制作したアルバム「SHARL」をLPでリリース。 1987年頃から、本名ではなく「琴桃川凛」と名乗り始め、上半身裸にビキニ・パンツ一枚などの過激な格好でライブを行うようになる。山木秀夫、梅津和時、ジョン・ゾーンなどのジャズ・ミュージシャンと度々共演ライブを行い、琴桃川はギター以外にも琵琶、ハープなども演奏。そのライブの模様が「琴桃川凛メイキングラブ」名義でビデオなどで多数発表されている。 その後しばらくの間、表立った活動を行っていなかったが、2001年、「琴桃川凛マイ・フェイヴァリット・シングス」を結成し、活動を再開。9・11テロをテーマにしたミニ・アルバムなどを発表した。 2002年、OZ DISCより、連続射殺魔時代のライブを収録したアルバム「'78.3.26渋谷屋根裏」、連続射殺魔からSHARL、Mu & Rock'n'Roll Musicまでのシングル、ソノシートなどを収録したベスト・アルバム「玉琴へのジョギング」をリリース。ベスト・アルバムのブックレットには、町田町蔵、江戸アケミらとの詳細な交流エピソードが描かれている。 2004年、「文藝春秋」誌上にて、中学校の同級生である作家の坪内祐三 、翻訳家の松本百合子との3人で座談会を行った。なお、この頃からライブ活動は行っていない。。〔来歴は、CD「'78.3.26渋谷屋根裏」ブックレットの「連続射殺魔とは vol.1」、CD「玉琴へのジョギング」ブックレットの「連続射殺魔とは vol.2」を参照。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「琴桃川凛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|