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【名詞】 1. regiment =========================== ・ 連 : [むらじ, れん] 【名詞】 1. party 2. company 3. group ・ 連隊 : [れんたい] 【名詞】 1. regiment ・ 隊 : [たい] 【名詞】 1. party 2. company 3. body (of troops) 4. corps
連隊(れんたい、聯隊とも、、)は、近世以降の陸軍の部隊編制単位のひとつである。ヨーロッパにおいて16世紀末までに成立した。統治を意味する''regime''の語幹が意味する通り、連隊は管理・行政用の単位で、そのまま一つの駐屯地・兵営に相当することが多い。このため、戦時編制としては上位の旅団か、下位の大隊が重視される。師団が普及するまでは徴兵と管理の基本単位で、それ以後は同一兵科で編成される最大の部隊であった。諸兵科の混成が進んだ現代では独自の意義は薄れた。 本来ならば旅団の下で大隊の上にあたるが、旅団・連隊・大隊のいずれかを中抜きする編制を採ることもあるので、師団のすぐ下に連隊を置く編制(アメリカ海兵隊やロシア陸軍、ロシア空挺軍など)や連隊のすぐ下に中隊を置く編制(フランス陸軍や陸上自衛隊など)、さらに連隊を置かず旅団のすぐ下に大隊を置く編制(アメリカ陸軍など)も現代では珍しくない。第二次世界大戦後の連隊の人員は3000名程度ほど。連隊長には、通常大佐が充てられるが、場合によっては中佐が充てられることもある。 == 連隊の歴史 == 連隊(regiment)はヨーロッパにおいて16世紀中に成立した。中世ヨーロッパにおいて軍隊の基幹となる部隊は中隊()が中心であったが、フランスでは17世紀に入ると陸軍の平時定数と戦時定数を増加させる政策が推進された。これにより、基幹部隊の規模も変化する。16世紀後半には歩兵の場合、千数百人から2,000人程度の「連隊」が編成され始めた。これらの連隊には地域や指揮官の名称が付けられ、そのまま軍事作戦や軍事行政の中心となっていった。連隊の上位には恒常的な軍事組織はなく、戦時になると軍を編成し戦役に臨んだ。 封建領主や傭兵隊長など1人の指導者に率いられる私的・家産的な軍事組織で、戦時になると傭兵隊長や封建領主(貴族)達は個々に国王と請負契約を結ぶという形が採られていた。すなわち、中世ヨーロッパでは傭兵部隊にしても、封建領主の所有する軍事組織にしても一個連隊が最大の単位だった。この当時の連隊は個人の所有物であり、近代のような国家の軍隊ではなかった。当時の軍隊や連隊はそれ自体が社団〔例として、中世の都市は自己の富を守るために、都市の周囲に城壁を巡らせ、自治組織を持ち、都市防衛のための独自の軍事組織を保有していた。王権はこの都市が持つ伝統や特権など各種慣行を王権の恩恵として保証する代わりに、都市は王権に忠誠を誓い必要に応じて財政援助などを実行した。このような団体を「社団」と称した〕であった。つまり王権の支柱として対外戦争を実行するとともに、一定の自立性を有し、王権の統制が十分に及ばない団体という性格を有していた。このため、当時の軍隊の基幹単位である「連隊」そのものは平時においても解体されず、固有の呼称や旗、伝統や団結心(フランス語で''esprit du corps'')を保持する軍隊内の社団として機能した。こうした特徴は常備軍が整備されてからも、長期にわたって存続することになる。 社団としての連隊は完全に独立した組織であり、兵隊の採用や給与を初めあらゆる手続きが連隊内で完結しており、兵站なども連隊ごとに個別に抱えていた。軍隊の募兵活動にしても現地部隊に請負に出され、連隊単位で募兵隊が編成され、都市や市場などで募兵の張り紙を貼り、訪問してきた兵隊志願者と面接し、双方の折り合いがつけば兵士としての雇用契約が交わされ連隊が兵士を雇入れた。このような私企業的とも言える行為を「連隊経営」や「中隊経営」と称される様に、連隊長は連隊の指揮官としてだけでなく、連隊の経営者としての側面も持ち、部隊を家産と認識していた。当時の兵站は軍事組織ではなく連隊長が酒保商人に下請けさせていた。このような時代では連隊の指導者である大佐(コロネル、カーネル)が軍隊での最上位の階級であり、その上には国王などの絶対君主制時代の君主しか居なかった〔ただし、「軍」を編成すれば将軍職が置かれる。また、17世紀まで時代が進むとフランスでは軍制改革が実行され、地方長官や軍政監察官が軍人を統制しようと試みられ、政軍関係の分離が推進される〕。将兵は入隊すると退役までずっと同じ連隊で勤務するのが原則であり、近代のように他の連隊に配置転換になることなど無かった(例としてフランス陸軍第1歩兵連隊の起源は中世までさかのぼる) これを象徴するのが連隊旗で、連隊はそれぞれ独自の旗を持って戦った。また、連隊史などの記録も個別に作られていた。また、連隊長は貴族の世襲であることが多く連隊は連隊長の所有物であることが普通だった。そのため、初期の連隊旗は実質上、連隊長の家紋を表すものでも有り、連隊史は連隊長の家系の歴史でもあった。 国家の軍隊になった後も連隊には高い自立性が残り、この名残はイギリスなど連隊の発祥が古い軍では相当長く残った(名誉連隊長など) 中世時代の連隊は兵力に定数はなく、数十人から数千人までバラバラであった。これは、1人の指導者が所有する軍事単位が連隊であり、戦争は君主と連隊長の間の契約に基づいて行われていたためである。傭兵部隊は人数に関係なく1契約単位で1個連隊であったため、傭兵部隊の隊長はどれほど小規模でも連隊指揮官である大佐(カーネル)と呼ばれた(現代においては、大企業も中小企業も同じように単一の法人格を有するのに似ている)。なお、漫画や小説などで少人数の傭兵部隊の指揮官が大佐と呼ばれるのはこの名残である。それゆえ、このような意味においても、現在「佐官」と日本で称される階級に「補佐する」「佐(たす)ける」という語を充てるのは必ずしも適切ではないといえる。 19世紀に師団制が普及すると、連隊の上に戦略単位として師団が置かれることになり、連隊の編制上の意義は低下した。しかし、歩兵、騎兵、砲兵の兵科の違いが戦術上なお重要だったため、連隊は同一兵科で編成される最大の単位(および連隊長は単一の実働部隊を預かる最高指揮官)と位置づけられた。18世紀、19世紀の歩兵は密集隊形で整列し、大砲は直接照準でしか撃てなかったため、両者が混合すると両者とも本来の力を発揮できなかった。騎兵は、歩兵と混合すれば歩兵の隊列を乱し、砲兵と混ざればやはり射界を妨げた。このように兵科を分けて部隊を編成することには当時において用兵上の利点があり、さらに加えて兵科ごとの教育・訓練の単位としても連隊は機能した。 しかし、19世紀末には騎兵が下馬戦闘を専らにするようになった。そして砲兵も味方の頭上越しに間接照準が行えるようになり、20世紀初めに歩兵が散開し身を隠して戦うようになると、兵科分離の戦術的必要性は低くなった。さらに進んで諸兵科の協同・混成の利益が積極的に認められるようになると、次第に連隊の自立性(自律性)は解体されていった。伝統重視の立場からの抵抗はあったが、第2次世界大戦後にはどの国の陸軍も連隊を特別な単位と見ることをしなくなっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「連隊」の詳細全文を読む
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