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進藤 甲兵(しんどう こうへい、1884年(明治17年)10月2日 - 1942年(昭和17年)1月25日)は、大正から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。東邦電力常務や九州鉄道(現・西日本鉄道)社長などを務めた。山梨県出身。 == 経歴 == === 東京電灯から九州へ === 進藤甲兵は1884年(明治17年)10月2日、山梨県北巨摩郡小淵沢村(現・北杜市)にて進藤利貞の次男として生まれた〔『現代名士立志成功伝』76-81頁〕。はじめ「広平」と名乗っていたが、1913年(大正2年)分家とともに「甲兵」に改めている〔『現代業界人物集』21-22頁、〕。生家の進藤家は土地の名家で、甲兵が生まれた当時はアメリカの商社の特約店として肥料商を営んでおり、裕福な家であった〔。兄の長重は陸軍士官学校を卒業して陸軍軍人となったが、日露戦争中の1904年(明治37年)に南山の戦いで戦死した〔進藤武左ヱ門『私の履歴書』第1章〕。また姉のしは分家筋の進藤東一郎に嫁いでおり、その長男(甲兵から見ると甥)に後年水資源開発公団総裁などを歴任する進藤武左ヱ門(1896 - 1981年)がいる〔。 はじめ政治家を志し1906年(明治39年)に中央大学法律科を卒業したものの、政界入りが果たせず同年10月東京の電力会社東京電灯に入社した〔。まず電気課、次いで倉庫課に配属され、その働きぶりから上司名取和作の信任を得たというが、同僚との軋轢から1909年(明治42年)11月に退職した〔『現代名士立志成功伝』82-94頁〕。退職後は一時両国橋駅(現・両国駅)で駅夫として勤めるが、翌1910年(明治43年)4月、名取の取り成しによって福澤桃介が関係する愛知県の電力会社名古屋電灯に入社〔『現代名士立志成功伝』94-105頁〕。社業の改善・拡大を目的に新設された調査課の課長に納まった〔。 1910年12月、名古屋から九州に赴任し、同じく福澤が関連する佐賀県の電力会社九州電気へ転属、同社調査課長に就任する〔。帳簿の整理や職制の制定に携わった後、翌1911年(明治44年)4月営業部長に転じ、1912年(明治45年)6月に九州電気と福岡県の電力会社博多電灯軌道が合併して九州電灯鉄道が発足すると同社佐賀支社の営業課長兼倉庫課長となった〔。1913年(大正2年)11月には本社監理課長に就任、同年に行われた群小事業者の合併に伴う社務の改革に従事した〔。 1917年(大正6年)九州電灯鉄道長崎支店長となり、1919年(大正8年)4月本社に戻って営業課長に進んだ〔。当時の九州電灯鉄道の幹部は、社長伊丹弥太郎、常務取締役松永安左エ門・田中徳次郎、支配人桜木亮三、副支配人竹岡陽一といった顔ぶれであった〔『九電鉄二十六年史』160-162頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「進藤甲兵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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