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逸然 性融(いつねん しょうゆう、1601年(万暦29年8月1日)- 1668年(寛文8年7月14日))は、中国・明末に日本に渡来した僧である。俗姓は李氏。逸然は字、性融は法諱である。浪雲庵王・烟霞比丘・煙霞道人と号する。 隠元隆琦を日本に招聘し黄檗宗の発展に尽くした。また画僧としても知られ羅漢図・神仙図などの仏画・人物図を得意とした。北宗画風の新様式を伝え長崎漢画の祖(唐絵の祖)とされる。門弟に河村若芝や渡辺秀石らがいる。 == 生涯 == 浙江省の杭州府銭塘県の生まれ。 1641年(寛永18年)、商売を目的として来日する。 1644年(正保元年)、長崎・興福寺の黙子如定の許で仏門に入った。翌年には、黙子が隠退し、第3代住持の座を継承した。 1652年(承応元年)、無心性覚の懇願により、隠元を招請した。結果、4次にわたる招請状の往還の末、1654年(承応3年)7月に、隠元の来日が成った。逸然はこれを慶び以降、引首印に「請法東伝」の語句を刻み書画に捺した。 隠元が渡来すると、逸然は、興福寺の住持を隠元に移譲した上で、自身は監寺と就ったが、翌年、隠元が摂津国の普門寺に移転したため、住持に復帰した。 1656年(明暦2年)、澄一道亮に住持の座を譲り、幻寄山東盧庵に隠退した。 1657年(明暦3年)には、『隠元語録』と『五灯厳統』(費隠通容撰)を板行した。 1667年(寛文7年)7月、興福寺で没した。享年68。墓所も興福寺後山にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「逸然性融」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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