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道嶋 嶋足(みちしま の しまたり、生年不詳 - 延暦2年1月8日(783年2月13日))は、奈良時代の武人。氏姓は始め丸子(無姓)、のち牡鹿連、牡鹿宿禰、道嶋宿禰。 陸奥国牡鹿郡出身。陸奥在地の豪族の中で唯一中央官僚として立身し、官位は正四位上・近衛中将に至った。 == 経歴 == 天平勝宝5年(753年)大初位下の時丸子から牡鹿連に改賜姓される。天平宝字元年(757年)橘奈良麻呂の乱において、反乱実行時に敵側となるのを防ぐために、賀茂角足が事前に武勇に優れた者を屋敷に呼んで酒盛りをしたが、嶋足は高麗福信・坂上苅田麻呂らの武人とともに招待されている。天平宝字年間に授刀衛将曹に任じられる。 天平宝字8年(764年)9月の藤原仲麻呂の乱において、藤原仲麻呂の子・訓儒麻呂が勅使・山村王を襲撃して玉璽と駅鈴を奪った際、嶋足は授刀衛少尉・坂上苅田麻呂とともに孝謙上皇の勅命を受けて、訓儒麻呂を襲いこれを射殺した。この功により従七位上から従四位下に昇叙、宿禰姓を賜姓された。翌月の10月には授刀少将兼相模守に任ぜられ、翌天平神護元年(765年)に勳二等の叙勲を受け、近衛員外中将に任じられる。こののち道嶋宿禰に改姓。 天平神護2年(766年)正四位下・次いで正四位上に叙せられる。神護景雲元年(767年)陸奥国大国造。この間近衛中将に任ぜられる。宝亀元年(770年)8月蝦夷の首長である宇漢迷公宇屈波宇らが朝廷軍との関係を断ち、配下の者とともに朝廷の支配が及ばない地に引き上げ、反攻の姿勢を示した際、嶋足は事実関係の検問のために現地に派遣された。 光仁朝でも引き続き近衛中将(中衛中将)を務める傍ら、宝亀9年(778年)2月下総守・宝亀11年(780年)3月播磨守と地方官、及び内廐頭を兼務した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「道嶋嶋足」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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