|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 浦 : [うら] 【名詞】 1. inlet ・ 誠 : [まこと] 1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion
道浦 誠(みちうら まこと、1972年5月6日 - )は日本の元陸上競技選手・現治療院経営者、アスレティックトレーナー兼指導者。専門は中・長距離種目。3000m障害を得意とする。和歌山県和歌山市出身。和歌山県立和歌山北高等学校体育科卒業。ダイエー⇒佐川急便所属。身長171cm、体重49kg〔陸上競技マガジン1990年9月号〕。 == 経歴 == 1988年4月、和歌山県立和歌山北高等学校体育科入学、陸上競技部に所属。 1990年8月、仙台インターハイ3000m障害で優勝〔。 1990年10月、とびうめ国体(福岡県)少年A3000m障害で2位入賞〔陸上競技マガジン1990年12月号〕。 1990年12月、第41回全国高等学校駅伝競走大会に和歌山北高校が和歌山県代表として出場し、1区(10 km)で3位に入る(29分51秒) (区間賞は渡辺康幸の29分42秒)〔陸上競技マガジン1991年2月号〕。 1991年3月、和歌山県立和歌山北高等学校卒業。 1991年4月、ダイエーに入社し、陸上競技部所属。中山竹通らを指導した佐藤進監督の指導を受ける。 1991年6月、日本ジュニア陸上競技選手権大会10000mで2位入賞し(優勝はステファン・マヤカ、3位は渡辺康幸)〔陸上競技マガジン1991年8月号p.265〕、ジュニア日本代表海外遠征メンバーに選出される。 1991年7月13日-14日、フロリダ州タラハシーのTAC INTERNATIONAL JUNIOR MEETにおける3000m障害、3000mで優勝〔陸上競技マガジン1991年9月号pp.248-249〕。 1992年3月、第20回全日本実業団ハーフマラソンで8位に入賞し、ハーフマラソン19歳以下日本最高記録を樹立(1時間02分54秒)〔陸上競技マガジン1992年5月号〕〔陸上競技マガジン1996年4月号 年齢別日本最高記録〕。 1993年4月、ダイエーの日産自動車陸上競技部接収(ダイエー神戸陸上競技部発足)に伴い、ダイエー大阪陸上競技部が解散。その後、度重なる故障等もあり、一時期、陸上競技から離れる。 1995年、佐川急便に入社し、陸上競技選手として復帰。 1998年7月、第12回アジア陸上競技選手権大会の3000m障害日本代表に選出され、5位入賞(8分46秒88)〔 〕〔陸上競技マガジン1998年9月号〕。 1998年10月、第82回日本陸上競技選手権大会3000m障害において2位入賞〔陸上競技マガジン1998年12月号〕(優勝はダニエル・ジェンガ)。 2000年・第36回千葉国際クロスカントリー〔陸上競技マガジン2000年4月号〕、2001年・第37回千葉国際クロスカントリー大会〔陸上競技マガジン2001年4月号p.157〕 の一般4000mにおいて2年連続2位入賞し、2001年3月の第29回世界クロスカントリー選手権ショートコースの部、日本代表に選出(他代表は木實淳治(2000年日本選手権1500m優勝)と大森輝和(2005年ヘルシンキ世界陸上日本代表))〔〔陸上競技マガジン2001年5月号p.75〕。 2001年10月の第56回国民体育大会〔陸上競技マガジン2001年12月号p.166〕、2002年1月の第7回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会〔 〕 〔 〕 〔陸上競技マガジン2002年3月号p.149〕 において肉離れを発症、最終的に筋断裂。このシーズンをもって現役を引退。 2009年、鍼師国家資格取得。 2009年5月、網走市に、さくらていしん治療院を開院。 2011年、同治療院を札幌市中央区に移転。 2013年5月、江別市に移転し、屋号を西町アスリート治療院と改称。治療院での施術・治療の傍ら、こども陸上教室を主宰し、小中高校生から一般市民ランナー、エリートランナーに至るまで幅広く指導し、アドバイスを送っている。また、天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会 北海道チームの帯同をはじめ、トレーナーとして各種大会の帯同も行っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「道浦誠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|