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達頭可汗(漢音:たつとうかがん、拼音:Dátóukĕhàn、生没年不詳)は、突厥の西面可汗。室點蜜(イステミ)の子。達頭可汗〔タルドゥシュカガン(Tarduš-qaγan)とは、タルドゥシュ(Tarduš)すなわち西部を管轄する小可汗のことで、西面可汗のこと。ビザンツ史料ではタルドゥ( - Tardu)と記された。これに対し東面可汗はテリスカガン(Tölis-qaγan、突利可汗)という。〕というのは封号で、姓は阿史那氏、名は玷厥(てんけつ)という。 == 生涯 == 576年頃、父の室點蜜が亡くなると、突厥の西面可汗に任ぜられる。この頃、東ローマ帝国からウァレンティノスの使節団が西面突厥にやってきて、室點蜜可汗との同盟を更新し、サーサーン朝を挟撃することを提案してきた。 北周の宣政元年(578年)4月、大可汗の他鉢可汗は幽州に入寇し、住民を殺略した。柱国の劉雄は兵を率いて防戦したが敗北して戦死。武帝の親総六軍は北伐をしようとするが、武帝の崩御に遭い断念した。この冬、それに乗じた他鉢可汗はふたたび辺境を寇略し、達頭可汗に酒泉を包囲させた。 582年、阿波可汗の部落が沙鉢略可汗に襲撃されたので、阿波可汗は達頭可汗のもとへ逃れてきた。事情を聞いた達頭可汗は怒り、阿波可汗に兵十万を授けて復讐させた。これにより阿波可汗に貪汗可汗や、沙鉢略可汗の従弟の地勤察などが附いて大きな勢力となった(これがのちの西突厥となる)。 達頭可汗は都藍可汗と敵対して、何度も交戦していたが、隋の文帝により両者は和解させられた。 598年、達頭可汗はエフタルを征服し、都藍可汗と同盟しアヴァールを討ったことを、東ローマ皇帝のマウリキウスに報告した。 599年、東突厥で都藍可汗と突利可汗が敵対関係になったので、達頭可汗は都藍可汗と手を組んで突利可汗を攻撃し、その兄弟子姪を殺した。都藍可汗が自らの麾下に殺されると、達頭可汗は歩迦可汗と号して、啓民可汗となった突利可汗と対立した。啓民可汗と組んでいた隋は、太平公の史万歳や晋王の楊広を派遣してこれを撃たせ、歩迦可汗を敗走させた。歩迦可汗は弟の子の俟利伐を遣わして、磧地に沿って侵攻させ、啓民可汗を攻撃したが、隋軍によって敗退した。 601年、歩迦可汗はふたたび大挙するが、隋軍により敗退し、吐谷渾に奔走した。 〔内田 1975〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「達頭可汗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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