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遠山 友禄(とおやま ともよし、文政2年9月2日(1819年10月20日)- 明治27年(1894年)4月4日)は、美濃苗木藩の第12代(最後)の藩主。 第11代藩主・遠山友寿の三男。母は於由賀。正室は島津忠徹の娘・美子。子は遠山友享(長男)、荻原某(次男)、娘(遠山友悌正室)。養子に遠山友悌(弟大和芝村藩第11代藩主織田長易の四男)。官位は従五位下。刑部少輔、豊前守、信濃守、美濃守。初名は遠山友詳(ともあき)。 == 生涯 == 三男だったが2人の兄が早世したため、文政11年(1828年)に世子となる。天保9年(1838年)11月に父が死去したため、翌年2月5日に跡を継いだ。 幸橋門番、駿府加番、奏者番などを歴任する。 文久元年(1861年) 6月若年寄となる。7月 芝将監橋上屋敷を差上、辰ノ口遠藤屋敷拝領。 文久2年(1862年) 生麦事件の際、英国代理公使ニールに幕府担当者として陳謝に向かう。 8月25日若年寄御役御免。 11月帰国。 文久3年(1863年) 4月 辰ノ口屋敷御用につき、常盤橋門内屋敷を拝領。 5月 大坂警備。(木津川御固め、大阪市中見回り)6月 常盤橋屋敷御用に付、愛宕下屋敷拝領。 元治元年(1865年) 10月 2度目の若年寄就任。 慶応元年(1865年) 1月 日比谷御門屋敷へ引移り。 4月 大阪へ。友詳から友禄と改名。 6月 14代将軍徳川家茂に随伴し第2次長州征伐に参加。 慶応2年(1866年) 徳川家茂が急死すると遺体を江戸へ護送し、その葬儀にも関わる。 慶応3年(1867年) 6月 若年寄御免、愛宕下屋敷に引移り。日比谷御門固めとして江戸詰めを続ける。 慶応4年(1868年) 1月 江戸にのぼってきた在領家中の説得を受け幕府へ帰国願を出し、即日受理され2月9日苗木に戻る。 2月21日 美江寺本陣にて東山道鎮撫岩倉総督へ勤王の旨申し上ぐ。 苗木藩、信濃に出兵。 明治2年(1869年) 版籍奉還により藩知事になる。大参事青山直道を用いて藩政改革を行なったが、藩士卒全員を帰農、家禄奉還させ家禄支給を削減し、さらには帰農法に基づいて旧士族に政府から支給される扶持米を大参事以下40名が3年間返上させることなど、旧藩士にとって過酷な内容だったため後年藩内で騒動が起こった。 あわせて藩知事遠山友禄の家禄の全額を窮民救済と藩の経費とすることにより、明治4年(1871年)までに明治維新当初14万3千両、藩札1万5900両あった藩の借金は5万2600両、藩札5千両までに縮小したが、廃藩置県により苗木藩は廃藩となる。 明治2年(1869年) 7月 織田長易の四男源三郎(遠山友悌)を養子に迎える。 明治4年(1872年)、政府の指示により華族として東京へ移住する。 明治7年(1875年) 6月 隠居し、養子友悌に家督を譲った。 晩年は旧藩士の救済などに尽力した。 明治28年(1894年)4月4日、東京にて死去した。享年76。墓所は岐阜県中津川市苗木の雲林寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「遠山友禄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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