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遠山 奬志(とおやま しょうじ、1967年7月21日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手(投手、外野手)。左投左打。 本名は「遠山 昭治」(読み同じ)。愛称は「遠山の金さん」「遠山親方」、「遠山桜」。 == 来歴・人物 == 八代第一高等学校から1985年プロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから1位指名を受け入団。1年目のから一軍ローテーション入りして8勝を挙げる。翌に故障して以降、低迷する。 オフ、高橋慶彦との交換トレードが成立し、ロッテ・オリオンズに移籍。投手として結果を残せず、より打者(外野手)に転向。は1A・バイセイリア・オークスへ野球留学した。にイースタン・リーグ(二軍)で最多安打を記録するなど非凡さを見せるが、は一軍出場が無くシーズン終了後に自由契約となる。同年シーズンオフに野手として古巣・阪神の入団テストを受けたが、翌日のテストで首脳陣のピッチングを見たいという意向で投球を披露し、投手として合格し入団。 阪神復帰1年目のは、投手への再起のためシーズンの大半を二軍での練習などに費やした。は登録名を遠山 奬志に変更。新監督野村克也のもとでサイドスローへの転向、シュートを習得して復活し、主に左打者へのワンポイントリリーフとして活躍。野村阪神の左の中継ぎエースとなった。同年5月22日の対巨人戦(阪神甲子園球場)で、10年のブランクを経て勝利投手となり、当時史上最長ブランクでの勝利を記録した(2010年に大家友和が日本球界で16年振りの勝利を記録、大幅に更新された)。同年は当時巨人の松井秀喜を13打数無安打に抑え込み、6月13日の対巨人13回戦(甲子園)ではピンチで石井浩郎を敬遠してまで松井に勝負を挑み、三振に打ち取るなど「松井・高橋キラー」と呼ばれた(ちなみに松井はこの時期「(遠山の)顔も見たくない」と憂鬱そうに語ったり、ヤンキース移籍後も「打ち取られる夢を見た」と話している)。 絶対的な抑えのいないチーム事情と野手経験もある事から、継投の際に一塁を守る事もあった。には右横手投げの中継ぎ投手・葛西稔(高校時代に一塁手経験あり)とともに、相手の打者の左右によって交互に「遠山・葛西・遠山・葛西」と一塁と投手とを交代しあって登板するワンポイント継投がしばしば行われた。これは後に「遠山・葛西スペシャル」と呼ばれ野村監督の必殺技とも言われた〔大阪ニッカンスポーツ2000年5月〕。ただし遠山本人は「あれは実際辛かった。投手にしてみれば、情けないと言いますか、やっぱり嫌ですよね。“右打者相手でも抑えられる”という信頼が無かったって事ですから。(中略)同じグラウンドにいるから気持ちは切れないんですけど、一塁守った後に前の打席と同じ球を投げられるかどうかは疑問」と後年語っており〔「日本プロ野球トレード大鑑2004」(ベースボールマガジン社)p72~73 本人へのインタビューより引用。〕、あまり乗り気ではなかったようである。 あたりから腰の具合が芳しくなく、星野仙一監督時代のには投球すら満足にできないような状態だったという。そしてシーズン終了を待たずに世代交代を理由に戦力外通告が行われ、そのまま引退を表明した。シーズン最終戦、9回裏2死無走者の場面で登板。最後の打者を空振り三振に仕留め、星野に肩を抱かれ、涙の中マウンドを降りた。 引退後は、毎日放送(MBS)・GAORA・サンケイスポーツ(大阪)で野球解説者を阪神戦中心に務めた。また、その傍らプロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズで投手として登板する。から二軍投手コーチとして阪神に復帰し、その後育成コーチとなった。 11月1日付でコーチを退任。からは再び、MBSの野球解説者として活動している。 2014年11月16日、「東日本大震災復興支援 巨人―阪神OB戦」に出場。2回、二死一、三塁の場面で、かつて「松井キラー」として一時代を築いた遠山が松井秀喜と対戦すると球場のボルテージは最高潮に達した。結果は右翼への二塁打〔。 からは東京スポーツ専属評論家となった〔東京スポーツ 2015年3月7日付20面参照〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「遠山奬志」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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