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遠山 景行(とおやま かげゆき、1509年 - 元亀3年(1572年)11月)は戦国時代の武将。明知遠山氏当主。美濃国明知城主(現在の恵那市明智町)。父は遠山景成(一説に明智光継)。妻は三宅高貞の娘。子に景玄、利景、娘(小里光次妻)、娘(三宅伊通妻)。別名:入道宗叔、与助。 == 生涯 == 。天文21年(1552年)土岐明智家で当主の明智定明が弟の明智定衡に殺されるという内紛があり(一説に斎藤道三の陰謀)、その混乱に乗じて、御嵩城主の小栗信濃守が、土岐明智氏の居城である高山城を攻略しようとした。その際、景行は甲斐国の武田氏の支援を受けて小里光忠らとともにが反撃し、御嵩城を攻め落とした。。 後に明知遠山家を含めた遠山家は、美濃に勢力を拡張する織田信長に接近する事になる。。 元亀3年(1572年)足利義昭に忠義を誓い、本願寺と結んだ武田信玄は、信長打倒のために西上を開始する。東美濃においては、その11月武田の将秋山信友が遠山景任病死後の岩村城をはじめ、明知、苗木、飯狭、串原などの遠山氏領を攻略した。そのような状況のなか、同年12月28日、景行(入道宗叔)はほかの遠山諸氏や小里氏、さらには徳川勢(菱鹿の奥平、台倉の戸田、足助の鈴木など)の援軍を得て、秋山信友率いる武田軍と上村の地で合戦に及んだ(上村合戦)。この合戦で、遠山勢は敗れ、小里光次などとともに討ち死にした。 享年64、墓は恵那市明智町杉野の安住寺にある。そこには、永禄4年(1561年)に亡くなった妻の墓もある。また、その子利景が建立した龍護寺にも墓がある。法名は、乾樹院殿文岳宗叔大居士。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「遠山景行」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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