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遠山氏(とおやまし)は、日本の氏族。美濃国恵那郡(現・岐阜県恵那市)に拠った利仁流加藤氏系が著名である。 == 美濃遠山氏 == 遠山氏の祖は藤原利仁の子孫加藤景廉である。景廉は源頼朝の重臣として功績を残し、文治から建久(1185-1198年)の頃に遠山荘(現在の岐阜県恵那市・中津川市・瑞浪市の一部)を与えられた。ただし景廉本人は頼朝と伴に鎌倉に居り、実際に遠山荘に赴任はしなかった。 承久の乱が始まって程なく景廉が死去。遠山荘の地頭職は長男の景朝が受け継いだ。この後、景朝は遠山荘に土着し遠山景朝と称し初代遠山氏となった。遠山氏の名が最初に認められるのは景朝が乱の首謀者の一人である一条信能を遠山荘で処刑した時である(ただし伊勢加藤氏に対して遠山加藤氏としただけともとれる)。 この乱で美濃守護の大内惟信が没落すると美濃国は北条氏の直轄領となり、恵那郡の遠山氏、土岐郡の土岐氏等はその傘下とされた。 その後、元弘3年(1333年)の建武の親政により土岐氏が大きく勢力を伸ばして美濃守護となり、遠山氏もこの勢力下に入った。しかし室町時代末期から戦国時代初頭にかけて土岐氏が衰退すると、岩村城に拠った惣領・岩村遠山氏以外にも遠山荘各地で立ち(遠山七家)、居城ごとに分かれて統治を行うようになった。 戦国時代にも土岐氏・美濃斎藤氏の勢力下にあったが、斎藤龍興滅亡後は東美濃で勢力を拡大した。しかし尾張・西美濃の織田信長と甲斐・信濃の武田氏の対立に巻き込まれ〔甲斐国の武田氏は天文10年代から信濃国を領国化し(信濃侵攻)、天文23年には南信の伊那郡を制圧し、この際に遠山氏は武田方にも帰属して両属関係となっているが、これにより武田氏と斎藤氏は緊張関係に入り、翌弘治元年に斎藤氏は遠山領国への出兵を行っている。さらに弘治2年の織田・斎藤氏の抗争において武田氏は遠山氏を通じて介入しており、武田氏はその後織田信長と友好的関係をもち、永禄8年には苗木遠山氏の遠山直廉の娘が信長養女として武田家に嫁いでいる。〕、上村合戦やその後の武田侵攻で惣領・岩村遠山は滅亡し、諸城も落ちて一族は離散した。のち徳川家康に仕えた苗木遠山氏の遠山友政が旧領に復帰し苗木藩を立て、また明知遠山氏一族が旗本として続いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「遠山氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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