|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 遠 : [とお] 1. (adj-no) distant ・ 遠山 : [とおやま] (n) distant mountain ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 金 : [きん] 1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) ・ 四 : [よん] 1. (num) four
遠山 景元(とおやま かげもと)は、江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、大目付、後に南町奉行を務めた人物である。テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』のモデルとして知られる。幼名は通之進、通称は実父と同じ金四郎(きんしろう)。官位は従五位下左衛門少尉。 == 生涯 == === 前半生 === 知行500石の明知遠山氏の分家の6代目にあたる人物である。父は長崎奉行を務めた遠山景晋、母は榊原忠寛の娘。 父・景晋は永井家から遠山家に養子入りしたが、後に養父の実子景善が生まれたため、景晋は景善を養子にしていた。景元出生時には未だ景善の養子手続きをしていなかったため、景元の出生届はその手続が終わった、誕生の翌年9月に提出された。文化6年(1809年)、父の通称であった金四郎に改める。青年期はこうした複雑な家庭環境から、家を出て町屋で放蕩生活を送るが、後に帰宅する。 文化11年(1814年)には堀田一定(主膳)の娘で、当時百人組頭であった堀田一知の妹けいと結婚する。堀田伊勢守家は知行4200石で知行500石の遠山家とは釣り合いが取れないが、この時当主の景晋は長崎奉行であり、堀田家は景元の将来性を見込んだのだろうとされる〔岡崎、P101 - P103。〕。文政7年(1824年)末に景善が亡くなったため、翌年の文政8年(1825年)に江戸幕府に出仕、江戸城西丸の小納戸に勤務して役料300俵を支給され、当時世子だった徳川家慶の世話を務めた。4年後の文政12年(1829年)4月、景晋の隠居に伴い家督を相続、知行地500石を相続する。 天保3年(1832年)に西丸小納戸頭取格に就任、同時に従五位下大隅守に叙任され、天保5年(1834年)に西丸小納戸頭取に昇進、翌天保6年(1835年)に小普請奉行に転任、天保7年(1836年)に官職を左衛門少尉(左衛門尉)に転じた。天保8年(1837年)に作事奉行、天保9年(1838年)に勘定奉行(公事方)、天保11年(1840年)には北町奉行に就く。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「遠山景元」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|