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遠藤 忠二郎(えんどう ちゅうじろう、1917年9月20日〔〕 - 没年不明)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手、外野手。 == 来歴・人物 == 浜松一中(現・静岡県立浜松北高等学校)から早稲田大学に進学。1936年に早大を中退して、大東京の結成に参加。投手で入団したが、当時の大東京軍は弱小球団かつ選手不足だったため、野手との二刀流で試合に出場する事となった。1936年秋季シーズン、大東京は5勝21敗2引き分け(うち16連敗〈1リーグ時代の最多連敗記録〉がある)と悲惨な成績だったが、遠藤はエースとして活躍。4勝5敗、防御率3.03とチームの勝ち頭の成績を残した(このシーズンの大東京の投手では、他に桜井七之助しか勝ち星を挙げた投手はいなかった)。1937年春季シーズン途中に名古屋軍へ、1938年からは東京セネタースに移籍。名古屋やセネタースでも、投手と野手の二刀流をこなした。1938年秋季シーズンに中島治康(巨人)に次ぐ、5本塁打(バッキー・ハリス〈イーグルス〉と並んでタイ記録)をマークし、長打力も見せつけた。投手以外には 遊撃手以外のポジションで試合出場歴があり、ユーティリティプレイヤーとしても活躍した。 1939年3月24日の大阪戦(後楽園球場)〔を最後に引退し、応召。その後、戦死した(死没場所・没年月日は不明)。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「遠藤忠二郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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