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邢秉懿 ( リダイレクト:憲節皇后 ) : ウィキペディア日本語版
憲節皇后[けんせつこうごう]
憲節皇后(けんせつこうごう、1106年 - 1139年)は、南宋高宗の最初の正室。皇后に遙封(不在のまま冊立すること)された。姓邢秉懿(けい ひょうい)。
== 生涯 ==
開封祥符の人。正五品儀曹・邢煥と妻の熊氏の娘。康王趙構(のちの高宗)にとつぎ、嘉国夫人に封ぜられた。
靖康の変後、に連行され、多くの辱めを受け、途中で流産した。建炎元年(金の天会5年、1127年)、高宗は南宋を建てて皇帝に即位し、金に抑留されたままの邢氏を、皇后に封じた。金に到着後の同年6月7日、高宗に屈辱を与えるため、高宗の生母の韋賢妃(顕仁皇后)、高宗の側室(姜酔媚田春羅)、高宗の娘(趙仏佑、趙神佑など)と共に、洗衣院に落とされた。同9年、男子を1人産んだ。
南宋の紹興5年・金の天会13年(1135年)、邢秉懿は洗衣院から解放された。紹興9年・金の天眷2年(1139年)、金で死去した。紹興12年・金の皇統2年(1142年)、韋賢妃が南宋で高宗と再会した際に、死去の事実が伝えられた。は初め「懿節」であった。孝宗の時代に「憲節」へ改諡された。
邢秉懿の死が明らかになった翌年の紹興13年(1143年)、側室のうちから呉氏(憲聖慈烈皇后)が新たに皇后に立てられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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