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那智ノ山 公晴(なちのやま きみはる、本名:柏木 佐平(かしわぎ さひら)、1920年8月15日 - 1994年12月22日)は、和歌山県日高郡日高川町(現役時代は、同郡矢田村)出身で、出羽海部屋に所属した大相撲力士。最高位は西前頭19枚目(1950年9月場所・1951年1月場所)。現役時代の体格は182cm、99kg。得意手は右四つ、三所攻め、大股、小股掬い。 == 来歴・人物 == 1937年5月、横綱・武蔵山の一行が巡業で和歌山市内を訪れた際に出羽海親方(元小結・両國)の熱心なスカウトを受け、それに応じて出羽海部屋へと入門。同年5月場所で初土俵を踏み、翌年5月、本名でもある「柏木」の四股名で序ノ口に付いた(その後、「那智ノ海」を経て「那智ノ山」へ改名している)。 三段目の地位で優勝した1941年1月場所の直後、兵役に就き、中国・湖北省に渡って日本軍の一員として日中戦争に参加。従軍中、右足太腿を酷く負傷し、程無く除隊した。 この怪我により右脚が左脚より短くなってしまうという後遺症が残ってしまった事で出世も順調に行かなくなり、一時は力士生命も危ぶまれたが、懸命のリハビリで克服。その甲斐もあって、1947年6月場所で待望の十両昇進を果たした。 1950年9月場所では新入幕を遂げ、惜しくも勝ち越しを逸したものの、健闘している(7勝8敗)。 長身の割に体は細く、右四つ相撲を得意とした力士であった。部屋付きの秀ノ山親方(元関脇・笠置山)から教わった奇手・三所攻めや大股などが得意技で、三所攻めは、本場所でも披露した事がある。 幕内は僅か2場所しか務まらなかったが、十両では永く活躍し(十両在位は、通算36場所)、引退を表明した1958年1月場所でもこの地位を保っていた。 引退後は年寄・峰崎として後輩達を指導し、日本相撲協会では相撲教習所の指導員を長年に亘って務めた。1985年8月、停年退職。 1994年12月22日、悪性リンパ腫のため千葉県市川市内の病院で亡くなった。享年74。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「那智ノ山公晴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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